第二〇四設営隊について
 
二〇四設営隊の硫黄島進出

 硫黄島の基地強化が本格化したのは昭和18年9月頃からである。海軍は飛行場の防備のために230名の兵員を配備し、さらに滑走路や施設の拡 張のため横須賀鎮守府施設部派遣隊(約800名)が派遣された。
 昭和19年1月、横須賀鎮守府において二〇四設営隊が発足した。この部隊には当時の日本としては珍しく、ブルドーザーやローラー車などの工作機械が装備 されていた。藤沢市で編成、出発準備を進めていた部隊は当初、インドネシア方面に派遣される予定であったが、2月にマーシャル諸島クェゼリン守備隊が玉砕 した影響を受けて、行き先は小笠原方面へと変更された。
 設営隊の先遣隊は昭和19年5月20日に出発、母島に駐留して防空砲台や水平砲台の整備を命じられた。しかしすぐに硫黄島に進出を命じられ、6月末から 7月上旬には硫黄島へ移動した。一方、本隊は7月10日に父島へ向け横須賀を出航したが、13日に大慈丸が潜水艦の攻撃を受けて撃沈され、設営隊員250 名以上が戦死した。さらに船に積み込まれていた重機類も海没し、部隊は主要装備を失った。
 7月下旬、在島の横須賀海軍施設部隊、さらに硫黄島に残留を命じられた島民を吸収して再編された二〇四設営隊は基地の拡充に従事したが、工作機械を失っ ていたため作業は困難を極めた。この時点での設営隊は次のような状況であった。
 

 設営隊長 飯田藤郎技術大尉
 第一中隊長 永橋吉之助兵曹長
120名
 第二中隊長 猪狩忠也技術大尉
200名
 第三中隊長 本間哲也技術大尉
250名
 第四中隊長 飯田藤郎技術大尉(兼任)
300名
 運輸隊長  稲垣重雄兵曹長
60名
 主計・医務隊など
60名

 なお、昭和19年8月10日の段階で1233名、10月15日の段階で1216名との記録もある。また、「第五中隊があった」との証言もある が、現在のところ確認されていない。運輸隊や主計隊との混同とも考えられる。

 設営隊到着以前に千鳥飛行場、元山飛行場は整備が進んでいたため、設営隊の主力は北地区にある二七航戦司令部や北飛行場の建設に従事した。ま た19年10月26日には「逆用防止」についての作戦命令が出されている。これは「逆用」つまり米軍が日本軍の施設を利用できないようにするため、敵が上 陸、接近したらその直前に施設・器材を破壊し、あるいは飛行場に地雷を埋設するなどの対処法をそれぞれの施設・設備・器材について定めたものであった。

 だが、米軍上陸以前にも設営隊の闘いは始まっていた。それは空襲後の滑走路補修であった。
 マリアナ方面の戦闘が終結すると、米軍は艦載機の急降下爆撃から大型機による高々度爆撃へと作戦を変えた。B−24などの爆撃機は日本軍の高射砲の届か ない高度8000m前後から連日のように爆撃を続けた。高度が高いので命中精度は高くなかったが、問題は爆弾の種類であった。米軍機は通常の爆弾で施設を 破壊するだけでなく、大量の時限爆弾も投下したのである。このため、米軍機が去った後でも安心は出来なかった。滑走路などを補修したり、不発弾を処理しよ うとすると断続的に時限爆弾が爆発するからである。一例として「十一月二十七日一二〇〇、B24五十三機来襲(中略)、時限爆弾夜明ケマデニ約八十発爆発 ス。」(「二段岩防空砲台日誌」)という記録で、その様子を垣間見ることが出来よう。
 それでも設営隊員や飛行機整備員たちは危険を冒して施設の復旧作業に努め、空襲後24時間ほどで補修をやり遂げた。滑走路へ爆撃を繰り返しても間もなく 復旧してしまうことを米軍は航空写真で確認して驚嘆したと伝えられている。

陸戦隊への移行と戦闘

 昭和20年2月15日、米軍の接近を受けて海軍部隊は陸戦隊編成に移行した。戦後地下壕から発見された編成表によれば、第一中隊350名は北 地区に、第二中隊350名は玉名山に、第三中隊(人数不明)は南地区、第四中隊(人数不明)は西地区に配属されることになっていた。一方で、「第一中隊は 南地区、第二中隊と運輸隊は西地区、第三中隊は玉名山、第四中隊は北地区へと分散した」との生還者証言もある。文書と証言が食い違う理由は不明であるが、 他の軍属部隊を吸収したり、人数の振り分けなどにより混乱が生じた結果であるか、あるいは文書に記された計画は早い段階のものであって、その後修正があっ たものかと想像される。

 陸戦隊編成に移行したとはいえ、戦闘部隊ではない設営隊に充分な武器があるわけでもなく、戦闘訓練さえ満足に受けたわけではなかった。設営隊 へは米軍上陸直前に父島から竹槍と先の尖った鉄棒が合わせて1000本届けられただけで、あとは土木作業用の爆薬、ツルハシなどを手にして米軍を迎えるこ とになった。海軍陸戦隊全体を見ても、手榴弾が1人あたり1〜2発という状況では、とても設営隊まで武器が行き渡る状況ではなかったのである。

 翌16日、米軍は上陸準備のため猛烈な艦砲射撃を開始した。それに伴い、「逆用防止」の指示も出された。設営隊や整備隊の将兵は砲撃の続く 中、17日までに60キロ爆弾や魚雷の弾頭を改造した地雷を飛行場に埋設した。少なくともこの地雷により、2月24日に元山飛行場に侵入した戦車が2両、 完全破壊されている。

 一方で、設営隊員は苦闘を続けた。27日、硫黄島海軍基地から本土に向けて発信された電報には「・・・海軍部隊ハ工員ニ至ルマデ銃ヲ取リ戦闘 ニ参加、従容トシテ自若死地ニ任ジ、多大ノ戦果ヲ挙ゲツツアリ、陸軍幹部ニ至ルマデ感激ス」と報告された。これを受け3月2日には「軍属も斬り込みに参 加」を伝える記事が各紙に掲載されたが、実態は電報よりも過酷であった。
 戦闘が続く中、十分な火力など所有していない設営隊は、陸軍や海軍警備隊のようには昼間の銃砲撃戦に加われないため、代わりに夜間の斬り込みに出かけざ るを得ないような雰囲気が生じていたのである。設営隊は夜間、少人数に分かれて米軍陣地に接近したが、多くは突入前に発見され射殺された。

 西地区・南地区の陸戦隊は2月末までに壊滅し、玉名地区陸戦隊は3月8日に玉砕突撃を行って全滅した。「3月8日、設営隊広場にも、目にあま る光景−死体がるいるいとしていた−がみられた」との生還者証言もあり、これは8日夜の玉砕突撃の後(つまり9日以後)のことであろう。北地区陸戦隊は海 軍司令部周辺から天山にかけ分散して交戦したが、3月16日から27日までに組織的な抵抗は終わった。北地区陸戦隊を率いていた板橋音丸大尉(硫黄島警備 隊・平射砲台部隊指揮官)は5月中旬、地下壕内で自決したと伝えられている。

 硫黄島協会によれば、海軍二〇四設営隊及び横須賀施設部隊の戦死者は合わせて1036名となっている。他の技術者部隊の戦死者としては兵装隊 (横須賀工廠)の93名、第二航空廠の181名、第二十五魚雷調整班の92名が主なところである。
 二〇四設営隊の生還者について、硫黄島協会は45名としているが、この数字に横須賀施設部隊が含まれているかは不明である。

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