昭和20年2月の硫黄島戦に先立ち、小笠原方面への輸送船団と米海軍との戦いは昭和19年4月頃からすでに始まっていた。以下はその主なものである。 昭和19年5月11日、父島から横須賀へ向かう6隻の輸送船が鳥島南東150km付近で米潜水艦の雷撃を受け、青龍丸(大阪商船 1904トン)が沈没。父島築城部将兵ら131名が戦死。
- 6月15日、父島から本土へ向け出航した甘井子丸(大連汽船 4804トン)が米潜水艦の雷撃により沈没。2名戦死。
- 6月24日、父島を18日に出航した熊野山丸(三井船舶 2857トン)が三宅島沖で潜水艦の雷撃により沈没。8名戦死。
- 7月4日、父島空襲に際し輸送船団は兄島滝之浦湾に避退するが、昭瑞丸(東和汽船 2720トン 1名戦死)、志摩丸(大阪商船 1987トン 2名戦死)、辰栄丸(辰馬汽船 1942トン 全員救助?)、第8雲洋丸(中村汽船 1941トン 3名戦死)、大功丸(太洋海運 897トン 7名戦死)、第5利丸(西大洋漁業 298トン 3名戦死)が空襲を受けて撃沈された。
- 7月13日、横須賀から父島・硫黄島へと向かう6隻の船団のうち、父島を目指した3隻が父島西北180kmで潜水艦の雷撃を受け、大慈丸(大阪商船 2813トン)が沈没。乗員・将兵ら389名戦死。
- 7月18日、館山から硫黄島へ向かう4隻が潜水艦の雷撃を受け、午前2時頃、第10雲海丸(中村汽船 851トン)が沈没、乗員19名ほか乗船の海軍将兵(詳細不明)が戦死。さらに午前7時、父島まで250kmの地点で日秀丸(日産汽船 7785トン)が沈没。乗員・将兵1449名は救助されたが96名が戦死。積載していた戦車28両をはじめ多数の高射砲・大口径砲・重機関銃・各種資材は全て海没した。
- 8月4日、父島から横須賀へ向け5隻の船団は出港直後の午前10時過ぎに米機動部隊の空襲を受けた。数次にわたる攻撃で午後4時頃までに昌元丸(石原汽船 4739トン 37名戦死)、延寿丸(岡田商船 5374トン 73名戦死)、竜江丸(大連汽船 5626トン 65名戦死)、第7雲海丸(中村汽船 2182トン 38名戦死)が沈没。さらに米巡洋艦・駆逐艦計7隻の砲撃を受けて利根川丸(松岡汽船 4997トン 144名戦死)も夜9時頃に沈没した。空襲と砲撃戦で護衛艦隊も大きな損害を受け、駆逐艦松(1262トン)が沈没。海防艦4号と12号も多数の死傷者を出して横須賀に帰港した。なお、同日、ほぼ同じ地点で弥生丸(図南汽船 495トン)が米軍機の攻撃により沈没したと記録にあるが、上記船団との関連は不明である。
- 8月31日、館山から父島へ向かう2隻の輸送船が聟島沖を通過中、父島で空襲警報が発令されたのを知り、分散して八丈島へ退避することになった。だが無事に到着したのは1隻だけで、伊奈丸(日本郵船 853トン)が行方不明となり、2日間の捜索でも何も発見できなかった。無事であったもう1隻が途中で何度も米潜水艦の攻撃を受けていたことから、31日夜半に米潜水艦の雷撃により沈没、場所は小笠原と須美須島の中間と推定された。乗員30名全員が戦死したことは確実であるが、同船に乗船していたであろう将兵の人数は不明である。
- 9月2日、硫黄島に到着した直後の駿河丸(大阪商船 525トン)が空襲及び艦砲射撃を受け沈没。船員4名戦死。将兵の損害は不明。
- 9月9日、館山から母島へ向かう常盤山丸(三井船舶 1804トン)と昌隆丸(栗林汽船 1916トン)が父島西北西440km付近で潜水艦の雷撃を受け共に沈没。それぞれ23名と67名が戦死。
- 10月1日、横須賀から父島へ向かう盛安丸(川崎汽船 1900トン)が西之島北西200km付近で潜水艦の雷撃を受け沈没。16名戦死。
- 10月12日、興海丸(三光汽船 540トン)が母島南西90kmにて米軍機に撃沈される。58名戦死。
- 10月18日、横浜から硫黄島に向かう睦月丸(日本製鉄 875トン)が母島東港内で空襲を受け座礁。2名戦死。
- 10月24日、母島から本土へ出発した生田川丸(東洋海運 2220トン)が潜水艦の雷撃を受け沈没。8名戦死。
- 12月16日、館山から父島へ向かう4隻の船団が父島西方70km付近で潜水艦の雷撃を受け、寿山丸(興国汽船 2111トン)が沈没。船員33名が戦死。同船には第4・第16震洋隊が乗船していたが、震洋25隻(「震洋」はモーターボートに250kgの爆薬を積んで敵艦に体当たりする特攻兵器)が海没、特攻隊員71名も戦死。
- 昭和20年1月3日、父島から館山へ向かう4隻の船団が鳥島南東180km付近で潜水艦の雷撃を受け、芝園丸(日本郵船 1831トン)と弥栄丸(日本海汽船 1941トン)が沈没。それぞれ57名と31名が戦死。
- 1月24日、硫黄島にて揚陸作業中の米山丸(北海船舶 584トン)と慶南丸(日本海洋漁業 584トン)が艦砲射撃を受け全壊。死傷者数不明。
米軍資料などによると、小笠原・硫黄島間の輸送任務中に沈没・座礁した小艦艇は、
- 19年7月4日 駆潜艇特16号・敷設艇猿島・輸送艦103号・同130号(航空機による攻撃)
- 8月4日 輸送艦4号・同133号(航空機による攻撃)
- 8月5日 輸送艦2号(航空機による攻撃)
- 10月1日 敷設艇網代(潜水艦による攻撃)
- 10月27日 輸送艦138号(潜水艦による攻撃)
- 12月24日 輸送艦8号・同157号(艦砲射撃による)
- 12月27日 輸送艦7号・同132号(艦砲射撃による)
- 20年1月5日 輸送艦107号(艦砲射撃による)・同154号(揚陸作業中に爆撃及び艦砲射撃を受け炎上)
輸送船団に護衛艦艇がつけられることもあったが、その多くは海防艦(約750トン)・駆潜艇(約430トン)といった軽武装の小型艦艇であり、多数の航空機・潜水艦に襲撃されれば応戦にも限界があった。
そしてこれら輸送船団に大きな被害を出したことは、硫黄島へ送られる人員・兵器・物資の多くが途中で失われたということであり、作戦計画にも大きな影響を与えることとなった。
また、昭和19年前半までは米潜水艦による被害が主であったが、マリアナ陥落前後から航空機による攻撃が増加し、後には水上艦艇からの艦砲射撃へと内容が変化していくことも特徴である。これは米軍の進出状況や部隊の運用方針の変遷(本土空襲が始まると、途中で海面に不時着したB29搭乗員の救助が米潜水艦の重要な任務となった)とも関わってくるものといえる。
文中でも少し述べているように、実は戦没者の正確な数は不明である例が多い。たとえ船員数は確かでも乗船していた将兵・軍属・民間人の数は不明か推定である場合が少なくない。あるいは船は沈まなくても対空戦闘で死傷者を出している場合があるため、上記の「戦死者数」は確実な最小限の数字であり、実際の犠牲者はこれよりも多いことをお断りしておく。
また、軍に徴用された民間船及び船員の損害についての記録・研究は日米共に少ない。特に、港湾施設のない硫黄島へは小型の船舶による輸送が多かったため、米軍も戦果の記録時に省略しているようである。このことも詳細が不明な一因といえる。
これ以外にも、小笠原・硫黄島近海で撃沈された輸送船はまだ多くあるが、それらの中にはマリアナ諸島や南太平洋へ向かう途中で撃沈された船も多く含まれているため、ここでは本土から小笠原地区への輸送任務と判明している事例に限り取り上げている。今後も確認次第追加していく予定である。
なお、太平洋戦争中に動員された民間の船員の戦死率は46%に上るといわれている。大戦中の海軍将兵の戦死率は約16%であるから、戦時の船員がいかに過酷な状況にあったか理解いただけるかと思う。