第1次御盾特別攻撃隊

 昭和19年11月27日午前8時、硫黄島千鳥飛行場から大村謙次中尉率いる12機の零戦と2機の偵察機「彩雲」が飛び立った。24日にB29が東京を空襲したため、その基地であるサイパン島を奇襲するためである。レーダーに捕捉されないように海面すれすれの高度5mで1000km以上の飛行後、攻撃隊は地上で出撃準備中のB29へ銃撃を加えた。
 当初の計画では、サイパンを銃撃した後、まだ日本軍が確保していたマリアナ北部のパガン島へ着陸することとなっていた。ところが前日の作戦会議で「パガン島までの燃料を考えると、サイパン上空での攻撃時間が非常に短くなる。何度もサイパン上空で反復攻撃を繰り返し、最後はそのまま地上に突っ込もう」という意見が隊員の方から出された。
 銃撃隊はサイパン上空で反復攻撃を繰り返した。そして猛烈な対空砲火と執拗な米軍機の追撃からパガン島へ生還したのはわずかに彩雲1機であり、戦況や戦果は不明のままであった。当初「サイパン特別銃撃隊」と呼ばれていた攻撃隊は後に「第1次御盾特別攻撃隊」と名付けられた。

 戦後になって明らかになったことは、このとき2機のB29を完全に破壊炎上、7機が大破という予想以上の戦果を挙げていた。そして大村隊長は全部の弾丸を撃ち尽くした後、サイパンのアスリート飛行場に強行着陸。拳銃を手に単身で米軍陣地へ突撃を行い、米兵との撃ち合いの末に銃弾を受けて戦死していた。米軍は大村中尉の勇敢な行動に驚嘆し、遺体を手厚く葬っていた。
 この日の未明には陸軍の第2独立飛行隊もサイパン爆撃に成功しており、両者の戦果を合計するとB−29の破壊・損傷は32機であった。当時マリアナ諸島に配備されていたB−29は約260機であり、その12%に損害を与えたことになる。

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米軍上陸

 19日午前6時40分、戦艦7,重巡4隻を中心とする艦隊による艦砲射撃が1時間20分にわたり行われた、次いで120機の艦載機による上陸地点付近への爆撃が行われた。

 上陸軍第1陣は第4・第5海兵師団の9千名であった。彼らは朝4時頃までに早めの朝食を摂り、一人平均40kgにもなる装備に身を固めた。8時15分過ぎ、海岸から3〜5kmの付近に上陸用舟艇250隻、水陸両用装甲車500両が隊列を整え、8時半に再び始められた支援射撃の下、二ツ根浜へ向けて前進を開始した。水陸両用装甲車の水上航走速度は時速7km、米軍は着岸までの30分間に2割が損害を受けると予想していたが、硫黄島からの反撃はなかった。大型の上陸用舟艇を重武装に改造した上陸支援船がロケット弾や大型機関砲を発射しながら上陸部隊を先導し、9時2分、第1陣が着岸上陸した。しかし米軍は準備砲撃のために柔らかくなった砂に足を取られて立ち往生してしまい、ようやく態勢を整えて海岸から百メートルほど進んだ9時29分、日本軍の猛烈な射撃が開始された。

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日本軍の反撃

 米軍上陸地点付近で守備に当たっていたのは混成第2旅団砲兵団と南・中・摺鉢山の各地区隊であった。米軍が砂浜から中央の台地へと進撃を開始したのを機に三方から一斉に銃砲撃が開始された。海兵が弾丸を避けようと窪地に飛び込むとそこには地雷原があり、完全に前進を封じられた第1陣と後続部隊が入り乱れた米軍は大混乱に陥った。南地区隊の正面に上陸した第25海兵連隊第3大隊約900名は猛攻を受けて150名に減少し、後退した。特に、部隊の先頭に立つ中隊長や小隊長の損害は甚大で、その大半が戦死もしくは重傷を負った連隊もあった。海岸は海兵の死傷者が散乱し、収容の余裕もなかった。海岸に陣地・補給所を作らねばならない海軍建設隊のブルドーザーは立ち往生したが、収容を待っていたのでは自分たちも銃砲撃にさらされるため、やむを得ず味方の死体を踏みつぶしながら作業をしたという。それでもこの日上陸した海軍建設隊員36名中、29人が死傷した。

 砲兵部隊の揚陸が始まると米軍も勢いづき、支援砲火を受けつつ前進するが、日本軍も噴進砲(ロケット砲)隊を投入、さらに対戦車砲で上陸直前の水陸両用装甲車や舟艇を狙い撃ちして大損害を与えた。しかし猛烈な銃砲撃戦の中、敵正面の部隊では早くも弾丸を使い果たし、爆薬を抱いて肉迫攻撃を行うところまで追い込まれていく将兵もあった。

 米軍はこの日のうちに島を横断し、千鳥付近を完全に制圧する予定であったが、その目標の半分ほどしか進出できなかった。海兵隊は2400名以上の死傷者を出し、戦車15両、水陸両用装甲車20両、上陸用舟艇約百隻が破壊された。また、上陸軍を支援するために26回の空爆が行われ、爆弾124トン・ロケット弾2254発・焼夷弾100発が投下されただけでなく、戦艦の主砲弾だけでも3500発を越えるという第2次世界大戦での最大の艦砲射撃を行っていた。

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摺鉢山の死闘

 米軍の第1の目標は摺鉢山の占領であった。山頂から全島を一望できるため、守備隊にとっても、攻撃側にとっても重要な拠点となっているからである。島の南部は海兵第5師団が担当することとなっており、第28連隊が摺鉢攻撃の主力として充てられていた。しかし山麓からおよそ800mというところで、日本軍の地下陣地からの猛烈な反撃を受けた。ここの陣地は完全に偽装されており、米軍の事前の偵察では全く発見されていなかった。上陸日には先陣を切った28連隊第1大隊の中隊長は1人を残し全員戦死し、後続部隊も近づきようがなかった。戦車隊が海兵の支援に駆けつけたものの、逆に地下の対戦車砲部隊に狙い撃ちされ次々と破壊された。翌日20日、第1大隊は予備軍に回され後退し、第2大隊が先頭に立った。

 海上からは駆逐艦などが海岸から300m以内の距離まで近づき(駆逐艦の砲の有効射程は4000m以上)、摺鉢山陣地への砲撃を加えた。中には砲弾を撃ち尽くし、補給を受けてまた砲撃を加える、ということを12回も繰り返した艦もあった。

 摺鉢山からの日本軍の砲撃も凄まじく、米軍は最前線に物資を届けることさえ充分に出来ない状況であった。山腹の砲台は上陸前の準備砲撃で大半が破壊されていたが、地下陣地はまだ健在であった。海兵第5師団の生存者は「高射機関銃(海軍の13mm機銃と思われる)を山頂付近から撃ち下ろしてきたが、通常の機銃よりも威力が大きく、命中すれば身体の一部が吹き飛んだり、引き裂かれるなどの悲惨な状況になるため、特に脅威であった」と回想している。
 2日目においても米軍の進んだ距離はわずか200mに過ぎなかった。しかし日本軍もこの付近の防御線に大損害を受けており、もはや摺鉢山の中腹陣地に立て籠もる他はなくなっていた。そして20日には摺鉢山陣地の総指揮官として派遣されていた厚地兼彦大佐が最前線の指揮所で戦車砲弾の直撃を受けて戦死した。

 

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第2次御盾攻撃隊

 台湾沖航空戦などで航空部隊に大きな損害を受けていた海軍は沖縄戦に兵力を集中するため、小笠原方面は基本的に支援しない方針を固めた。しかし、現場の航空隊員からは硫黄島の海軍航空隊を見捨てることに対し不満の声が高まった。これを受けて第3航空艦隊司令長官寺岡中将は第2次御盾攻撃隊(村川弘大尉指揮、零戦12・彗星12・天山8機、計46名)の編成を指示した。

 21日、悪天候をついて25機が千葉県香取基地より出撃した。攻撃隊は八丈島で給油した後、故障で突入を中止した4機を除く21機が硫黄島守備隊の見守る中、沖の米艦隊に奇襲を加えた。護衛空母ビスマーク・シーは体当たりを受け爆沈。大型空母サラトガは爆撃と体当たりを受けて修理に3ヶ月を要する損害を受け、戦線から離脱した。他に護衛空母ルンガ・ポイントと輸送艦ケオクック、戦車揚陸艇(LST)477号と809号も体当たり攻撃を受け、火災が発生したが、まもなく鎮火した。
 この作戦は1000kmを超える洋上飛行を伴う特攻としては最初のものであり、司令部では隊員の飛行訓練が充分な状態ではないため、悪天候の中で目的地にたどり着けるかどうか危ぶむ声もあった。見方を変えればそれが米軍の不意をつく結果になったともいえよう。

 攻撃隊は護衛の零戦3機が父島の州崎飛行場に帰還した。同じ頃、彼らの突入を成功させるための任務を帯びたオトリ部隊の陸攻4機が木更津を離陸した。1機は故障のため離陸直後に墜落し、3機が硫黄島上空でレーダー妨害のために金属箔の散布などを行った。このうち2機は帰還したが、1機は硫黄島上空で撃墜された。

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早内大尉の勇戦

 22日、元山飛行場正面の守備に当たっていた独立速射砲第12大隊(47ミリ対戦車砲12門、432名)は米軍戦車1個中隊を300m以内の近距離まで引きつけて迎撃した。一斉射撃で数両を破壊したものの、米戦車隊及び航空部隊もすぐさま発射点に向け反撃した。多くの砲員が倒れ、砲も半数が破壊されたのを見た大隊長の早内(さない)政雄大尉は自ら砲を操作し、さらに数両の敵戦車を撃破した。しかしその砲も破壊され、砲陣地に米戦車が突入してきたので早内大隊長は自ら爆薬を抱いてその下に飛び込み、壮烈な自爆を遂げた。

 早内大尉をはじめとする守備隊の激烈な抵抗により、この日の米軍の進出線は前日とほとんど変わらなかった。予想以上に戦車を破壊された海兵第4師団が司令部の命令により攻撃を切り上げたからである。

 栗林兵団長は感状を授与して全軍にその武功を伝え、その勇戦ぶりは28日に上聞にも達し、全国に報じられた。

 隊長と火砲の大半を失った第12大隊は元山飛行場の北側の陣地を拠点として夜間斬り込みなどの戦闘を続けたが、3月4日頃に玉砕した。

 そしてこの後も、米戦車に対する特攻攻撃は島内各地で続けられた。昭和26年(1951)に硫黄島を訪れた日本人の目撃談によれば、戦後6年経っていても何両もの破壊された米戦車が各地に放置されたままになっており、その周囲には爆薬を抱えて突入した日本兵の遺骨片が散乱していたという。

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摺鉢山陥落

 21日午後、山麓の陣地をようやく突破したため、海兵第5師団長ロッキー少将は水陸両用装甲車で上陸、海岸に司令部を設置した。摺鉢山はこの日の夕刻までには米軍に包囲されたような形になっていた。21日深夜、夕刻の特攻隊の戦果に勇気づけられた決死隊が斬り込みを試みたが、米軍に察知され失敗に終わった。

 翌22日、硫黄島は豪雨に見舞われ、隊員たちにとっては久々の水の補給となった。米軍は戦車が泥にはまりこみ苦労を強いられたものの、摺鉢山を力攻めにしていた第5師団にとっては一つの転換点ともなった。
 それまで、日中には日本軍が地下陣地から発砲しても明るさのために発射炎が見えにくく、発射地点の特定は困難であった。しかし悪天候による薄暗さのため、この日は発射炎が見え、日本軍陣地の発見が容易となった。米軍は発射地点を確認すると陸海から猛烈な砲撃を加え、一つ一つ日本軍陣地を破壊していった。日本軍の反撃が弱まってくると火炎放射戦車が地下陣地の入口に攻撃を加え、あるいは工兵隊が入口を爆薬で閉鎖、日本兵を生き埋めにした。さらに地下陣地の上から削岩機で穴をあけ、ガソリンと黄燐を注入して中の守備兵を焼き殺した。
 大きな損害を受けつつも米軍は摺鉢山の日本軍陣地の大半を破壊することに成功した。この段階で地下陣地にはまだ300名以上の日本兵が生き残っていたが、封鎖された入口を再びあけるための作業をおこなっていた。

 23日、摺鉢山からの発砲がほとんど無くなったのを確認した海兵第28連隊第2大隊長C.ジョンソン中佐はH.シュライヤー中尉以下40名に山頂の占領を命じた。もはや日本軍の抵抗もほとんど無く、10時20分、40名は山頂に到達、米国旗を掲げた。このとき海岸では視察に来ていたフォレスタル海軍長官(文官)がちょうど上陸したところであり、同長官を感激させた。
 その後まもなく星条旗は大きなものと取り替えられた。いわゆる「硫黄島の星条旗」である。従軍記者ローゼンソールにより撮影されたそのときの写真が公開されると、硫黄島戦での緒戦の大損害に憤慨していた米世論は海兵隊への讃辞に変わっていった。

 彼ら40人は一躍英雄となったが、その後の中部台地や北地区での激戦により大部分が死傷し、無傷で島を出たのは4人に過ぎなかった。また、ジョンソン大隊長も3月2日、砲弾の直撃を受けて戦死した。

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