輸送船団の戦闘
 昭和20年2月の硫黄島戦に先立ち、小笠原方面への輸送船団と米海軍との戦いは昭和19年4月頃からすでに始まっていた。以下はその主なものである。  これらとは別に父島・母島から硫黄島への輸送にも多くの船舶が動員された。輸送艦・輸送艇だけでなく魚雷艇などの小型船、さらには徴発した漁船や機帆船(5〜80トン)までが使用された。徴発した小型船は速度も遅いため航海は夜間のみとし、日没後に母島を出航し早朝に北硫黄島で碇泊、再び日没を待って硫黄島へ向け出航することにした。だが米軍もこの動きを把握しており、北硫黄島周辺でも航空機による偵察と攻撃を毎日のように繰り返したため、輸送船団はこの区間でも多数の死傷者や沈没船を出している。

 米軍資料などによると、小笠原・硫黄島間の輸送任務中に沈没・座礁した小艦艇は、

 となっている。この記録に民間から徴発された船舶の損害は含まれていないため、民間船の沈没数、さらに沈没以外の損害を含めればさらに大きな数となるはずである。

 輸送船団に護衛艦艇がつけられることもあったが、その多くは海防艦(約750トン)・駆潜艇(約430トン)といった軽武装の小型艦艇であり、多数の航空機・潜水艦に襲撃されれば応戦にも限界があった。
 そしてこれら輸送船団に大きな被害を出したことは、硫黄島へ送られる人員・兵器・物資の多くが途中で失われたということであり、作戦計画にも大きな影響を与えることとなった。

 また、昭和19年前半までは米潜水艦による被害が主であったが、マリアナ陥落前後から航空機による攻撃が増加し、後には水上艦艇からの艦砲射撃へと内容が変化していくことも特徴である。これは米軍の進出状況や部隊の運用方針の変遷(本土空襲が始まると、途中で海面に不時着したB29搭乗員の救助が米潜水艦の重要な任務となった)とも関わってくるものといえる。

 文中でも少し述べているように、実は戦没者の正確な数は不明である例が多い。たとえ船員数は確かでも乗船していた将兵・軍属・民間人の数は不明か推定である場合が少なくない。あるいは船は沈まなくても対空戦闘で死傷者を出している場合があるため、上記の「戦死者数」は確実な最小限の数字であり、実際の犠牲者はこれよりも多いことをお断りしておく。
 また、軍に徴用された民間船及び船員の損害についての記録・研究は日米共に少ない。特に、港湾施設のない硫黄島へは小型の船舶による輸送が多かったため、米軍も戦果の記録時に省略しているようである。このことも詳細が不明な一因といえる。

 これ以外にも、小笠原・硫黄島近海で撃沈された輸送船はまだ多くあるが、それらの中にはマリアナ諸島や南太平洋へ向かう途中で撃沈された船も多く含まれているため、ここでは本土から小笠原地区への輸送任務と判明している事例に限り取り上げている。今後も確認次第追加していく予定である。

 なお、太平洋戦争中に動員された民間の船員の戦死率は46%に上るといわれている。大戦中の海軍将兵の戦死率は約16%であるから、戦時の船員がいかに過酷な状況にあったか理解いただけるかと思う。

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