主な指揮官

栗林忠道陸軍中将

第109師団長兼小笠原地区集団長として硫黄島守備隊の総指揮をとる。騎兵出身(陸士26期)で陸軍大学校を二番で卒業、米国留学、カ ナダ駐在武官等の経歴を持ち、国際事情に明るかった。陸軍省軍務局課員、同兵務局馬政課長、騎兵第1旅団長などを務めるが、工兵の育ての親とも言うべき上 原勇作元帥の指導を受け陣地築城にも通じていた。若い頃に新聞記者を目指したこともあり文才にも優れ、陸軍が公募して作らせた「愛馬進軍歌」の選定に関 わった。開戦時には南支派遣軍 参謀長として香港攻略戦に参加。留守第2近衛師団長を務めた後、硫黄島に赴任。

市丸利之助海軍少将

第27航空戦隊司令官として硫黄島の海軍兵の総指揮をとる。海兵41期、航空畑に進み名パイロットとして知られていたが、負傷により自 らは操縦ができなくなった。そこで予科練の設立に尽力し、初代部長として後進の育成に務めた。最後の突撃の際、戦争の原因は米英にありとする「ルーズベル トに与える書」を作成してその闘志を示した。和歌にも造詣が深く、与謝野鉄幹が主宰する「冬柏」誌にしばしば投稿していた。

千田貞季陸軍少将

混成第2旅団長。歩兵戦術の大家として評判が高く、仙台陸軍幼年学校長などを務める。陸軍大学を卒業していないのに将官に抜擢されるこ とは異例のことであり、栗林中将が「最も優れた歩兵団長を」と東京に求めて選ばれた人物であるのもうなずける。硫黄島着任にあたり「(1)団結の強化 (2)明るく元気(3)牛刀主義(小事にも全力であたる)(4)創意工夫」を守備隊に呼びかけた。

厚地兼彦陸軍大佐

昭和19年3月、伊支隊長として陸軍の部隊長の中では最も早く硫黄島に派遣される。村医のいなくなった硫黄島島民のために軍医を派遣し、島民が内地に疎開 した際には、米500俵を 特配するよう陸軍省に要請して実現させるなど、島民の保護に尽力した。栗林中将赴任後は司令部付きとなるが、米軍上陸の直前、摺鉢山陣地の指揮官に任じら れる。

西竹一陸軍中佐

第26戦車連隊長。外務大臣・枢密顧問官などを務めた西徳二郎男爵の三男、11歳で男爵家を相続した。1932年のロサンゼルス五輪に おいて大会の最終種目、馬術大障害で「ウラヌス号」に騎乗して金メダルを獲得し、日本国民だけでなく排日移民法に苦しめられていたロスの日系人をも大いに 湧かせた。「バロン西」として米国でも広く知られている。

レイモンド=スプルーアンス海軍大将

第5艦隊司令長官。硫黄島攻撃の米軍総司令官。ミッドウェー海戦、マリアナ沖海戦では米機動部隊を率いて日本機動部隊に大勝、タラワ上 陸戦や沖縄戦も指揮した米海軍の大功労者だが、元帥にはなれずに終わった。マリアナ沖海戦でサイパン上陸軍の支援に重点を置き(大局的に見て正しい判断だ ともいえるが)、日本海軍への追撃を充分にしなかったことが海軍省で批判されたためという。

ホーランド=スミス海兵中将

遠征軍指揮官として上陸部隊の総指揮をとる。タラワ戦・サイパン戦では第5水陸両用軍団長を務めた海兵隊の中心的存在。サイパン戦では 侵攻速度の遅い陸軍の師団長を戦意不足として解任するという猛将ぶりを発揮した。ただ、これが原因で陸軍の反発を受け、後にミズーリ号上での降伏文書調印 式への参加をマッカーサーに拒否されたともいう。

マーク=ミッチャー海軍中将

第58機動部隊司令官。16隻の空母を率いて硫黄島を空爆、さらに艦載機による本土空襲を実施。山本五十六機撃墜作戦、マリアナ沖海 戦、台湾沖航空戦、レイテ沖海戦にも参加しており、後の沖縄戦では戦艦大和を撃沈、終戦直前には本土への艦砲射撃も指揮した。なお、ミッチャーの機動部隊 は第5艦隊へ編入時には第58機動部隊、ハルゼー大将の第3艦隊編入時には第38機動部隊となる。

グレーブス=アースキン海兵少将

海兵第3師団長、海兵隊最年少の将軍(当時46歳)だが、スミス中将の参謀長として多くの作戦に参加した歴戦の士であった。両将軍の下 で多くの指揮官が育成され、海兵隊指揮官はスミス=アースキン族と呼ばれるまでになった。後にアイゼンハワー大統領の下で国防総省特別作戦部長を務める。

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