米軍の投降勧告ビラ

 ↑.投降勧告ビラの本文

 ←.裏側に印刷されている写真(実物は2色刷)

(遠藤喜義氏が所蔵していたビラをコピーしたものです。)

 戦時中、連合軍は様々なビラを作り、飛行機から日本軍の陣地になどにばらまいた。本土空襲が激しくなった戦争末期には国内の民 間人向けにも多くの宣伝ビラを散布している。

 このページにある画像は、海軍硫黄島警備隊・北硫黄島派遣隊長であった遠藤喜義氏(現:硫黄島協会会長)が所蔵しているビラを私がコピーした ものであり、硫黄島戦において米軍が散布したものである。実物の大きさはハガキ大であり、写真が印刷されている面は赤色も使った2色刷である。

 宣伝ビラは様々な形式・内容があり、敵側の戦意喪失をねらったものや自国の正当性を訴えるもの、そしてここに挙げたような降伏をすすめるもの などが主なものであった。形式もヒトコマ漫画風のもの、新聞風のものなど様々である。

 戦争初期に米軍の宣伝ビラ作成を担当したのは、日本国内での弾圧を逃れて国外に逃亡していた社会主義者たちが多かった。例えばOSS(米国戦 略情報局、CIAの前身)の担当者が日系人収容所から選抜したスタッフ約40名の大半がアメリカ共産党員もしくは入党経験者であった。さらに戦争後半には 捕虜になった日本兵の一部も作成に関わるようになった。このとき、アメリカ側は「(日本兵は)右翼的な観念に凝り固まっている人たちだから、左翼の刺激の 強いものを与えればちょうど良いのではないか」と考え、捕虜収容所で「資本論」や日本のプロレタリア文学なども読ませたりした(元語学将校ドナルド・キー ン氏の回想)ためか、捕虜の中にはそれに影響されて、左翼の機関誌まがいのビラを作ったり、捕虜収容所で革命思想を周囲に説く者まで現れたという。

 このような宣伝ビラにどの程度の効果があったかを判定することは難しい。このビラを拾った遠藤氏は当時「かえって反発を感じた」と証言してお り、他の戦場での体験談などを読んでも同様の反応は少なくないように思われる。
 一方、戦後に米国・戦略爆撃調査団が日本各地で行った聞き取り調査において「(内容よりも)紙質の良さからアメリカはすごいと思った」といった回答も あったことは興味深い。また、「ビラよりも先に投降した日本人捕虜による呼びかけがより効果的だった」との回想もある。

 また戦争中期頃、大本営では英米両国の宣伝ビラを収集・分析し、「米国の宣伝ビラは直接的に結論を述べてしまうため、かえって反発を招きかね ない。それに比べて英国のビラはいくつかの事例を示して結論を読者に考えさせるようにしているため、心理的な効果が大きい」という主旨の考察を行ってい る。

 戦争末期になると日本人捕虜の協力もあって米軍の宣伝ビラの傾向も変化し、日本人の心情に訴えるようなものや世論をゆさぶるようなものを作り 出すようになる。中でも重大な結果をもたらしたものの一つに「マリヤナ時報」が挙げられる。
マリアナ時報 左の画像(注1)に あるとおり、「マリヤナ時報」は米海軍が作成していた新聞形式の宣伝ビラであった。当初は日系人に編集をさせていたが、日本文に不自然さが目立ったた め、米軍は 日本人捕虜に添削や校正をさせるようになった。そして終戦の2ヶ月前、米軍は新聞の編集段階から日本人捕虜に任せることにし、ハワイのパールシティ収容所 に28名の捕虜が集められた。そこで作成の中心となったのが硫黄島で投降した小柳胖(おやなぎ ゆたか)で ある。陸軍一 等兵であった小柳は出征前に新潟日報の編集局長であった。さらにグアムで捕虜になった朝日新聞記者の横田正平、同盟通信(現:共同通信)記者の高橋義樹が 加わることで「マリヤナ時報」は本物のジャーナリストが作成する宣伝ビラとなったのである。小柳たちはハワイの新聞社へ出入りを許され、そこで得られた 戦況のニュースを編集した週刊の新聞を伝単としたのである。つま り「投降しろ」と明記するのではなく、本土空襲の惨禍や沖縄戦の推移など、事態が次第に日本に不利になっていく事実を淡々と伝えることで日本人の厭戦気分 をかきたてようとするものであった。また、小柳が書いた記事の中には「戦時中でありながら、米国の新聞には政府批判の論説も載る」ことを紹介し、米国社会 の寛容さを伝えようとしたものも あったが、この文章を載せたビラの投下以前に終戦となったため日の目を見なかった。終戦までにB-29から本土に投下された「マリアナ時報」の総数は約 458万枚と伝えられている。
 そして昭和20年8月13日夜、大量の「マリヤナ時報」号外2117号がB−29から東京周辺に投下された。内容は8月9日付で出された「国体護持を条 件としてポツダム宣言を 受諾する」という主旨の日本の通告と、それに対する「日本皇帝及び日本政府の統治権は連合軍最高司令官の下におかれる」旨の連合国の回答(バーンズ回答) を併記したもので あった。これらの交渉内容は国民、特に抗戦派の軍人には極秘で進め られていたものが、こ のビラによって世間の目にさらされたのである。国民の動揺と混乱、さらに抗戦派のクーデターを恐れた木戸幸一内大臣は14日朝、昭和天皇や鈴木貫太郎首相 と相 談して緊急の御前会議を開催した(本来、御前会議は閣議で結論の出た議題のみを上げることになっており、閣議を省略するのは異例であった)。そして14日 昼、「聖断」により終戦が決まったことはよく知られている。 

 英語のわかる捕虜が手分けして翻訳し、最終的に小柳が添削して文体を整えたこの「マリヤナ時報」が終戦を少なくとも数日、早めたことは間違い ないと言えよう。しかし彼らの多くは戦後、沈黙を続けた。回 想記を残した横田(注2)と高橋(注3)であるが、いず れも内容は戦場体験から捕虜になるまでであり、宣伝ビラ作りには触れていない。小柳は新潟日報の社長を務める傍ら、硫黄島協会新潟支部で遺族への慰問を続 け、捕虜仲間とも交流はあったが、作者の知る限り、硫黄島戦や捕虜生活の体験、そして宣伝ビラ作りなどについて著述したものは見あたらない。唯一、横田の 部下であった上前淳一 郎の取材に応じ、その著作(注4)に「幡さん」として登場するが、上前氏に対してその心境を充分に語った とは言い切れないようである。収容所長のオーテス=ケーリ中尉(後に同志社大学教授)とも交流は続き、ケーリの著作(注 5)からも小柳の複雑な心中は読みとれるが、それ以上の真相はわからない。
 3人とも物故者であるため、「宣伝ビラ作成に関わったこと」と「戦後の沈黙」についてのその心境は確かめようがないが、特に小柳にとっての「戦争」につ いては今後も調べていきたいと作者は考えている。

(注1)「マリヤナ時報」昭和20年6月1日号。恒石 重嗣『大東亜戦争秘録−心理作戦の回想』東宣出版より
(注2)横田正平 『私は玉砕しなかった グアムで投降した兵士の記録』 中公文庫   この手記が公表されたのは横田の死後である。
(注3)堀川潭 『悲劇の島 記者の見た玉砕島グアム』 光人社NF文庫
(注4)上前淳一郎 『太平洋の生還者』 文春文庫 なお同書中、横田は「北川」、高橋は「田崎」の名で登場してい る。
(注5)オーテス=ケーリ 『よこ糸のない日本』 サイマル出版会

戻 る