特設監視艇隊の戦闘
 
 太平洋戦争直前、日本各地で多くの漁船が海軍に徴用された。中心となったのは主に100トン前後のカツオ・マグロ漁船である。こうして結成された第22戦隊(通称:黒潮部隊)は太平洋戦争のほぼ全期間を通じて偵察・監視任務に従事した。ここでは黒潮部隊がサイパン玉砕後の昭和19年夏から硫黄島戦の終了後に至るまで、小笠原近海で苦戦を続けた時期(監視艇の被害が最も大きかった時期でもある)を中心に紹介する。(注:軍が民間から徴用した船舶に武装などの改造を施し、艦艇として使用したものを特設艦船と呼んだ。)

黒潮部隊の創設

 昭和16年8月以降、太平洋岸の漁港から遠洋漁業向けの漁船が次々と海軍に徴用され、改造されて特設監視艇となった。集められたのは当時の漁船としては最大級といえる80トンから150トン級のカツオ・マグロ漁船などおよそ300隻である。漁船に乗り組んでいた漁師・船員たちも一緒に軍属として徴用され、彼らは自分たちの船を指定された軍港へ回航させた。ここで漁船に無線機・武器などの取付作業が行われたが、武装といってもこの当時は監視艇の存在を敵に覚られないことを重視したため、目立ちやすい大型の武器は装備せず、搭載されたのは7.7ミリの軽機関銃1挺だけ、さらに数挺の小銃が乗組員に支給されたのみであった。

 昭和17年2月、改装作業を終えた76隻が北洋警備を主任務とする第5艦隊に編入され、特設監視艇隊・第22戦隊が発足した。監視艇は釧路漁港などから出航し、20隻あまりが東経155〜160度、北緯30〜50度付近で偵察・監視線(東哨戒線)を張るのである。徴用された76隻は3隊に分かれ、20日ほどの交代制で任務についた。監視艇には14人から20人前後が乗り組んでおり、うち半数ほどが海軍軍人、残りが船とともに徴用された漁師たちであった。

東京初空襲

 昭和17年4月18日早朝、第2哨戒隊所属の第23日東丸は日本本土東方1200km付近で米機動部隊を発見した。この部隊こそが東京初空襲で知られるドゥーリットル隊を乗せた第16機動部隊(ハルゼー中将指揮)であった。日東丸は直ちにこれを打電、さらに報告を続けたが、巡洋艦「ナッシュビル」からの砲撃を受けて撃沈され、全員が戦死した。
 ハルゼーは空母「ホーネット」から爆撃機を発進させた後、空母「エンタープライズ」艦載機に日本監視艇の捜索と攻撃を命令した。これにより、さらに12隻の監視艇が艦載機からの銃爆撃を受けて4隻が沈没。戦死者は日東丸も含め30名を上回った。また長渡丸の5名が沈没時に脱出、米軍に収容されて捕虜となった。
 これが黒潮部隊の最初の戦闘となったが、秘密部隊であったため、戦死の公報が出されたのは1年8ヶ月後の昭和18年12月10日になってからであった。

南哨戒線への転換

 サイパン玉砕後の昭和19年8月1日、第22戦隊は第5艦隊所属から連合艦隊直属部隊となった。戦隊本部は横浜の元英国総領事館に置かれ、正式な部隊名を秘匿するため「黒潮部隊」の札が下げられていた。そしてマリアナ諸島から日本本土へ来襲する米軍に備え、黒潮部隊は南哨戒線上(北緯29,30,31度、東経135〜145度)での監視任務に就くこととなった。南哨戒線は鳥島と小笠原諸島との間に当たる。
(写真は黒潮部隊の本部が置かれていた建物。昭和6年(1931)に英国総領事館として横浜港大桟橋の近くに建設された。現在は横浜開港資料館旧館となっており一部が公開されている。ただし、展示内容はペリー来航から関東大震災の頃までであり、黒潮部隊関連の展示や説明はない。)

 米軍は日本海軍が漁船を監視艇として利用している事をすでに知っていたため、監視艇はしばしば米航空機や潜水艦の攻撃を受けるようになっていた。マリアナ諸島が米軍に占領されると、小笠原近海に現れる米軍機(B−24やB−25)も増加した。これらの米軍機は監視艇を発見すると即座に低空飛行を行い、まず翼で監視艇のアンテナ線を切断し、その後で船体に銃爆撃を加える戦法を採った。アンテナを切断された監視艇は「敵発見」の打電を行うこともできずに撃沈されるものが相次いだ。
 原則として監視艇は敵を発見するまでは逆探知を防ぐために無線の使用を禁止されていたことから、敵発見の打電をする間もなく撃沈された監視船の多くは沈没位置・日時・状況も判らないままに喪失と認定された。

 監視艇の被害が莫大なものになったため、この時期にはなるべく2隻1組で行動させ、各船にも5〜8cm砲を一門、25ミリや13ミリの機銃を数挺装備することになったが、射程距離も短く威力も不足しているため自衛用としても余りに非力であり、速力も最大で8ノット程度では逃げることも不可能に近かった。これに加え司令部から各船の乗組員へは次のような指示がなされていた。「監視船の任務は3つ、(1)ウツ(敵を発見したら打電せよ)、(2)ウテ(攻撃してきたら備砲で反撃せよ)、(3)ツッコメ(最期は敵艦めがけて突入せよ)」という内容である。これを墨守したのか、それとも逃げ切れないと観念したのか、何隻もの監視艇が遭遇した敵艦船を目がけて突進し、その多くは備砲の射程距離内に近づく前に撃沈された。

 マリアナから日本本土への空襲に対する危機感が高まってきた昭和19年秋になり、監視艇にも対空レーダーが装備されることになった。そしてマリアナに配備が始まったB−29を早期に発見するため、監視艇の重要度はさらに増すことになった。同年11月1日のB−29の初侵入(偵察飛行)を発見することは出来なかったが、第2回目の5日にはこれを発見、本土の防空部隊に通報した。こうしてB−29に対する監視艇の有効性は実証されたが、これは米軍から見れば、監視艇も重要な攻撃目標の一つになったということでもあった。

硫黄島戦と黒潮部隊

 昭和19年度末以降になると硫黄島や小笠原に対するマリアナ諸島からの爆撃が連日のものとなり、その爆撃機が海上に不時着したときに乗組員を救出するため派遣されていた米潜水艦までが行動中の監視艇隊を攻撃するようになっていた。時には本土爆撃を終えて帰投する途中のB−29が高空の悪天候を避けて低空飛行したため監視艇と遭遇、銃撃戦となったこともあった。敵との遭遇が増えたため南哨戒戦も強化され、それまでは1隊約10隻の哨戒隊が3交代で監視していたところを、11月下旬からは1隊約30隻に増強することになった。

 昭和20年2月、硫黄島上陸作戦の総指揮を執っていた米第5艦隊司令官スプルーアンス大将は、上陸作戦と併せて艦載機による本土空襲を実施することにした。目的は本土の日本軍航空基地と軍需工場であり、硫黄島への上陸軍に対する日本本土からの航空攻撃を防ぐという戦術的な目的だけでなく、海軍機による日本空襲を行うことで、陸軍航空隊に功績を独占させないための政治的な目的があったともいわれている。

 本土空襲作戦を完全に成功させるため、まず黒潮部隊への攻撃が行われた。スプルーアンス大将の要請を受けた陸軍航空隊は2月11日から14日まで、監視艇捜索のため延べ25機のB−29を偵察機隊として出撃させた。高度900mで偵察飛行を実施したB−29部隊は黒潮部隊と思われる小船艇を発見しているが、偵察だけでB−29からの攻撃は行わなかった。
 一方、日本本土空襲を担当する第58機動部隊は監視艇の多い鳥島近海を避け、小笠原と南鳥島の中間を通過して房総半島沖へと移動した。2月16日と17日に関東・東海地方への空襲を行った後、同部隊は19日からの上陸戦支援のために硫黄島へ向かった。こうして黒潮部隊の南哨戒線を北から突破することになった機動部隊は艦載機により監視艇を攻撃した。このとき現場海域にいたのは第三及び第一監視艇隊であったが、17〜18日にかけて米艦隊が哨戒線を通過するまでに11隻の監視艇が沈没・行方不明となり、5隻が大損害を受けた。
 第58機動部隊は19日以降、硫黄島への航空攻撃や艦砲射撃を繰り返していたが、2月21日夕方に特別攻撃隊第二御盾隊の突入で米艦隊が予想外の損害を受けたため、翌日、反撃のため再び日本本土へ向かった。24日夜、第一監視艇隊の第五千秋丸がこの機動部隊を発見して軍令部に通報、このため日本側も翌日の空襲に備えることが出来、前回に比べれば損害は少なかったが、一方で米艦隊への接触を続けた監視艇のうち5隻が25日までに喪われた。
 26日未明、硫黄島へ向け南下していた第58機動部隊は一部の小型艦が波浪で損傷するほどの荒天に見舞われた。午前3時頃、米艦隊はその巨大な波に隠れるように船団の中に潜り込んでいる2隻の監視艇を発見した。直ちに米駆逐艦から5インチ砲と40mm機関砲での攻撃が行われたが、2隻はさらに米艦に接近して小口径砲で応戦した。1隻は駆逐艦ポーターフィールドの艦橋付近に1発を命中させて3名を死傷させ、もう1隻は軽巡洋艦パサディナに13発を命中させ2名を負傷させた。だが反撃もこれが限界であり、2隻は間もなく撃沈された。生存者はなく、船名さえも不明である。

 黒潮部隊は大きな損害を出していたが、硫黄島への米軍上陸後、同島からの対B−29監視が困難になったため、その任務の重要性は増す一方であった。そこで2月20日に本土で待機していた第六監視艇隊が解隊されて南哨戒線の第一、二、三監視艇隊に配分編入され、その後も米軍や悪天候と闘いながらの監視任務が続けられた。3月にも9隻以上が撃沈され、その他多くの監視艇が米軍機や潜水艦と交戦、多数の死傷者を出している。
 硫黄島での激しい地上戦が続くのとほぼ同じ時期に、その近海でも漁船員たちが圧倒的な米軍を前に必死の戦闘を続けていたのである。

終局

 硫黄島が陥落し、同島にP−51などの戦闘機部隊が配備されると、小笠原近海を漁船改造の監視艇で警戒することは危険すぎて不可能となった。このため昭和20年4月30日を最後に南哨戒戦での監視は打ち切られ、監視艇隊は本土沿岸で活動、訓練することになった。3月に沖縄方面で西哨戒線を監視していた一隊も同様に呼び戻された。しかしこの頃には本土沿岸部にも米軍機や潜水艦が多数現れるようになり、5月にも12隻の監視艇が失われた。一方で3月下旬、B−29による関門海峡への機雷投下があり、5月には大阪湾付近へも機雷投下が開始されたため、黒潮部隊の一部は瀬戸内海に移り、機雷の監視と掃海に従事することになった。木造船のため磁気機雷に反応しないことを買われたのである。その後も日本の沿岸部、主要港湾に対する機雷の投下は続き、沿岸での海上輸送さえ危険な状態になったため、黒潮部隊は掃海だけでなく、輸送にまで従事するようになった。7月中旬には青函連絡船の大部分が空襲で喪われて本州と北海道の連絡が途絶えたため、その後は黒潮部隊が缶詰などを積み込んで函館と大湊の間を往復した。
 8月10日付けで第22戦隊は廃止され、その5日後に終戦となった。生き残った監視艇は再び漁船となったが、一部はその後も瀬戸内海などでの掃海作業にあたった。

 黒潮部隊には最大時には約6000人の軍人・軍属が投入され、徴用された漁船は400隻を上回る。うち約200隻が沈没、損傷も含めれば7割が被害を受けた。戦没者は沈没数などから推定して最低でも千数百名以上ということしか判らない。その乗組員の多くは軍属として徴用された漁師であり、将校も商船学校出身者や学徒兵から成る予備士官であった。地味な存在であったためほとんど資料もなく、その全貌は明らかではない。

<追記>
 漁船を徴用したのは海軍だけでなく、陸軍も日中戦争時から徴用を開始しており、また農水省に徴用されて漁業に従事しつつ偵察に従事した船もあるが、これらの船と硫黄島・小笠原戦との関連は不明なため記述は省略した。

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