硫黄島戦の経過

1944. 6. 8 栗林忠道中将、硫黄島に着任。
15 サイパン戦開始。米軍機、硫黄島・小笠原諸島へ初空襲。
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米艦載機、硫黄島来襲。上空で大空中戦となる。
26 栗林中将の上申を受けた日本政府は小笠原・硫黄島島民の強制疎開を指示。このとき中将はサイパンが陥落したら和平交渉を始めるべきとの上申もしたが、途中で握りつぶされたという説がある。
7. 4 米艦隊が硫黄島を艦砲射撃。小笠原も空襲を受ける。大本営は第2艦隊の小笠原派遣を検討。
7 サイパン島玉砕。南雲忠一海軍中将以下約4万名、在留邦人約1万名が戦没。(人数には諸説あり)
10 硫黄島島民195人、疎開船で東京へ出航。
16 硫黄島島民573人、父島・母島島民723人を乗せた疎開船が横須賀へ出航。硫黄島島民の本土への疎開終了。
8. 3 テニアン島玉砕。角田覚治海軍中将以下約5000名、在留邦人約3500名が戦没。
4 最後の疎開船団、父島出航。同日4隻が撃沈され、島民13人を含む二十数人が死亡。4月から疎開した人の合計は硫黄列島で1094名、小笠原全体を合わせて6886名であった。
10 グアム島玉砕。小畑英良陸軍中将以下19,135名戦死。米軍はマリアナ諸島を手中にしたことで、本土空襲の拠点を確保。途中にある日本の航空基地は硫黄島だけとなる。
9. 1 米第58機動部隊、2日間にわたり小笠原を空襲。以後、上陸開始まで連日、硫黄島に対する空襲が行われる。
15 パラオ諸島(ペリリュー島、アンガウル島)攻防戦開始、守備隊は洞窟に立て籠もっての持久戦により米軍に多大な損害を与え、ここでの戦訓が硫黄島で生きることとなる。
11. 1 マリアナ諸島発のB29、東京上空へ偵察飛行開始。
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11日夜から12日未明にかけて、硫黄島へ艦砲射撃。
24 マリアナのB29、本土空襲開始(この日は70機)。日本は硫黄島の航空部隊により応戦。年末までにB29を29機撃墜。
27 硫黄島から出撃した零戦12機、サイパンの米軍基地を攻撃。機銃掃射で十数機のB29を破壊炎上させる。生還機は偵察機1機。(第1次御盾攻撃隊)
12. 8 米軍、硫黄島に対し5時間にわたる空襲、さらに1時間の艦砲射撃を行う。
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米艦艇による硫黄島への艦砲射撃。北地区砲台から15cm砲で反撃(?)
1945.2.16 H.スミス海兵中将、記者会見で「攻略予定は5日間、死傷は1万5千を覚悟している」と説明。第58機動部隊、硫黄島への支援を妨害するため、1200機の艦載機で、南関東、東海地方の軍事施設への空襲を行う。
17 戦艦6隻を中心とする100隻以上の米艦隊、砲撃を開始。
18 摺鉢山の海軍砲陣地、米艦隊の猛射を受け全滅。
19 2時間の艦砲射撃の後、まず第4・5海兵師団のうち約9000名が戦車200両と共に上陸を開始上陸後まもなく、日本軍も反撃を開始、大損害を与える。夕方までに米軍は4万名を上陸させるが、2400名以上の損害を出した。
20 米軍は1000名以上の損害を出すが、夕方に千鳥飛行場を制圧。摺鉢山地区では守備隊長厚地兼彦大佐が戦死。元山の本隊と摺鉢山との通信連絡が遮断される。
21 香取基地より出撃した25機、硫黄島沖の米艦隊に突入。空母1隻を撃沈。空母・LST計3隻を大破させる。(第2次御盾攻撃隊) 米軍、予備兵力の第3海兵師団を上陸させる。
22 未明、浜松基地より出撃した陸軍機(四式重爆)が東海岸の米軍を爆撃。 日本軍の抵抗が激しく、元山攻撃に向かった第4海兵師団の損害が大きいため、米軍司令部は同師団長ケーティス少将に対して攻撃の一時中止を命令。大本営での最高戦争指導会議において秦彦三郎参謀本部次長は「硫黄島の我が組織的抵抗は今後2週間と判断する」と発言。
23 第5海兵師団、摺鉢山を占領。約1600名の守備兵が戦死、25名が血路を開いて本隊に合流。この日までの米軍死傷者は全地区で5300名以上に達した。
24 米軍、元山飛行場攻撃のため海兵2個師団を投入、隣接する高地を占領するが、約2200名の死傷者を出す。夜半、木更津から出撃した海軍機(一式陸攻)が米軍陣地を爆撃。
25 海兵全師団による元山飛行場への総攻撃。日本軍の損害が半数を越え、弾薬も当初の3割近くに減少する。
26 米軍、元山飛行場を占領。日本軍の損害増大のため、栗林中将は守備態勢を再編する。 日本海軍が派遣した人間魚雷搭載の潜水艦隊、戦果を挙げられないまま撃沈される。(回天特別攻撃隊千早隊)
27 衆議院、硫黄島守備隊に対し感謝激励の電報を送る。
3. 2 北飛行場、元山をめぐり激戦、日本軍の損害が7割を超える。米軍、飛行場をほぼ制圧。
5 栗林中将の掌握する兵力は約3500名に減り、中将は戦線の縮小を決定。抵抗拠点を島の中央から北部の陣地に移す。同日、米軍も態勢再編のため攻撃中止。
7 アースキン第3海兵師団長、早朝の奇襲により中央突破に成功。日本軍は島の北部と東部に分断される。
8 夜半、井上左馬二海軍大佐は海軍警備隊など約1千名を率いて突撃戦を試みるが、米軍の火力の前に挫折、井上大佐以下800名以上を失って敗退。
9 千田旅団長、旅団の残存兵力により総攻撃を行うが、反撃を受けて中止。旅団の歩兵部隊は大損害を受け、敵に包囲された千田少将は迫撃砲隊により救出される。
10 東京大空襲。2月25日からこの日までの「地獄の2週間」の間に海兵3個師団の死傷者は合わせて1万2千名弱に上った。また、この段階における北地区の日本軍本隊はすでに1500名程であった。
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米軍第62建設大隊、千鳥飛行場の修復及び爆撃機用滑走路(約1770m)への改修工事を完了。
14 米軍、主要地域を占領。国旗掲揚式を行う。北地区の残存兵力は約900名となり、守備隊の主力であった歩兵第145連隊は軍旗を奉焼。
16 第3海兵師団、島の北部に到達。残存の日本兵は北地区に約500名、東地区で約300名となる。
17 千田旅団長自決、旅団司令部玉砕。栗林中将は大本営に決別の打電後、司令部壕を放棄し、海軍の残存部隊と合流。 東部地域に孤立した西中佐の戦車連隊も玉砕
19 損害の大きかった第4海兵師団、撤収開始。米陸軍第147連隊上陸。
20 P51戦闘機部隊の硫黄島への配備始まる。
21 大本営、硫黄島守備隊は17日夜に玉砕と発表。
26 未明、栗林中将・市丸少将以下300名、北部落付近の拠点から包囲をすり抜け、島北西の海岸付近へ脱出してから西部落・元山飛行場へ向け最後の突撃。米軍約170名を殺傷し、飛行場地区にたどり着き玉砕。 以後、組織的な日本軍の戦闘はなく、少人数によるゲリラ的抵抗が散発的に続けられる。
4. 1 沖縄本島に米軍上陸。第3・4・5海兵師団は硫黄島戦の長期化と損害により参加せず。
7 硫黄島から出撃したP51部隊がサイパンからのB29部隊と合流して東京を空襲。以後、護衛機をつけたB29の空襲、およびP51による機銃掃射が激化。
8. 1 父島所属の魚雷艇隊、海軍北硫黄島派遣隊20数名を救出して母島へ帰還。
15 終戦。この頃までに硫黄島の日本軍生存者の多くが米軍に収容される。
1949.1. 1 島内に潜伏していた日本軍最後の生存者2名が米軍に収容される。
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