二見海軍燃料貯蔵場(清瀬重油槽) 

 父島の二見湾は天然の良港であり、ペリー艦隊が父島に来航した目的も燃料補給の場を確保するためであった。日露戦争の終結後、 海軍が対米戦を重視するようになるにつれ、前進基地としての父島の役割も重視されるようになった。

 大正3年7月、第一次世界大戦が勃発、日本もドイツに対して宣戦布告した(当時は「日独戦役」と呼称された)ことで、小笠原諸島はドイツ南洋 諸島に対する最前線となり、これを機に急激に基地化が進むことになった。開戦後まもなく父島清瀬北方に海軍の望楼が設置された。これが小笠原に置かれた最 初の軍事施設であり、この望楼は後に無線電信所へと発展していく。

 第一次大戦後のワシントン会議により小笠原は防備制限区域に属することとなったため、砲台などの工事は大正11年(1922)に中止された。 だが昭和11年末をもって軍縮条約が失効し、防備制限が解除されると再び軍事施設の拡張が始まることとなった。
 対米戦が始まる前後には父島の海軍施設は大幅に増え、そのために父島の主要産業の一つであったクジラの解体・加工工場が清瀬から兄島の滝之浦に移転させ られるような事態も発生した。だが戦争で捕鯨どころではなくなっていたのか、この新たな加工場はほとんど操業されなかったと伝えられる。

 軍の補給拠点としての小笠原の歴史は、大正6年(1917)12月、二見海軍貯炭場が設置されたことに始まる。貯炭場が設置された場所は現在 の小笠原水産センターの付近である。ところが、第一次世界大戦の終了後、艦船の燃料は石炭から石油に移行していき、昭和の初期には主要艦船の汽罐が換装さ れた。このため昭和3年(1928)4月、貯炭場は横須賀海軍軍需部・二見燃料貯蔵場と改称されて重油の補給を行うことになった。

 その後、海 軍の増強や作戦計画の変更に伴い石油の必要量が増加したことから、二見燃料貯蔵場では需要に対処しきれなくなった。加えて秘匿性や抗堪性(耐弾性)も確保 するため地下式の設備が計画された。昭和12年(1928)に父島清瀬にこの写真にあるような重油槽が建造され、二見海軍燃料貯蔵場はここに移転した。

 高台の下に造られた地下洞窟式の重油槽は全部で3本あり、扉は半径2mあまりの半円形である。内部は幅10m、高さ10m、奥行き40mあ り、1槽につき300万リットル、全部で900万リットル(約8100トン)の重油を貯蔵することができた。これは当時の主力駆逐艦(燃料搭載量 400〜650トン)なら12〜20隻分、5,500トン級軽巡洋艦(燃料搭載量1260トン)なら6隻分の燃料をまかなえる規模である。戦艦や大型空母 (搭載量5000〜6300トン)になると1隻にしか給油できないが、大型艦は航続距離が長いので父島で補給しなくても問題は少ないであろう(実際には艦の燃料タンクが空になる前に給油するので、補給可能な艦数はこれより多いことになる)。
 昭和14年(1939)に小笠原近海で行われた海軍演習の際には、空母「赤城」を含む多くの艦艇が二見港に入港している。この時にこの貯蔵場から給油を受けた艦艇もあるだろう。

 このタイプの重油槽は国内にこれしか現存せず、土木技術史上からも重要な戦跡といわれる。現在、この場所には都立小笠原高校が建てられてお り、施設は校舎の建つ高台の下にある。
(写真は平成15年9月に作者撮影)

 この貯蔵場は昭和19年(1944)2月に父島軍需支庫と改称された。

清瀬重油槽2 終戦後、小笠原は全域が米軍の占領下に置かれたが、硫黄島を除き、米軍は1946年10月に撤収した。その後は父島に帰島を許された欧米系島民のために海軍の船がグアムから年に数回訪れるだけとなった。

 ところが、朝鮮戦争(1950〜53)をきっかけにして小笠原の位置づけは急変する。その後の米ソ対決へと国際情勢の緊張が進む中、小笠原は日本本土の米軍基地とグアムの基地との中間に位置する拠点としての重要さを増すことになった。小笠原は日本国内や沖縄の米軍基地を支援する拠点である「二次的基地(secondary base)」と位置づけられたのである。1951年には米海軍が父島に再び配備された。万一、朝鮮戦争が東西の全面戦争に発展して日本国内の基地がソ連の攻撃により使用不能になった場合に備え、小笠原地域に数万単位の兵員を配置できるよう、硫黄島を中心に大掛かりな兵舎や施設の建設も行われたほどである。 硫黄島返還時にはこれらの施設が残っていたので、「米軍は硫黄島に1万人以上の兵員を常駐させていた」との説が出されたが、実際に配備されたことはなかっ た。

 その中で、この施設周辺も米海軍によって新たに利用されることになった。その利用法とは「核兵器の貯蔵」である。父島の奥村地区にて核兵器の 貯蔵が行われており、二見港内に米潜水艦が入港する時には島民(当時は欧米系のみ)が周辺に近づくことは禁止されていた。加えて、当時は硫黄島にも核爆弾が配備されていたのである。

 なお、以前はこの貯蔵所内に核爆弾が格納されていたとされており、当サイトでもそのように記述していましたが、「その後の調査で核兵器の貯蔵 所は同じ 山ではあるがもっと奥の方にあったことが判明している」と、ロバート=D=エルドリッヂ氏から御教示がありました。また、核兵器が父島に貯蔵されていたこ と について、全国紙などで大きく報道されたのは2000年だが、欧米系島民の間では返還時にすでに常識になっていたと、吹浦忠正氏の御指摘がありました。両氏に厚く御礼申し上げます。

 小笠原を日本に返還することや本土に強制疎開となった旧島民の帰還について、米国務省は日米関係重視の視点から前向きであったが、国防省・海軍の反対により1950年代には実現しなかった。その理由が核兵器の配備に関係していたことはほぼ間違いのないところであろう。
 だが、核戦略・戦術の変化により、60年代には小笠原・硫黄島の核兵器も撤去されたといわれる。そしてこのことが1968年(昭和43)の小笠原返還にもつながっていったのである。

 なお、小笠原返還をめぐる戦後の日米交渉や米国政府内の動きについては、
 ロバート=D=エルドリッヂ「小笠原と日米交渉 1945-1968年」(ダニエル・ロング編『小笠原学ことはじめ』南方新社に収録)に詳しい。

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