市ヶ谷の旧参謀本部について
 硫黄島戦からはやや離れたテーマになりますが、今となっては貴重な(?)画像ですので、ここに資料として掲示することにします。
 現在、陸上自衛隊の市ヶ谷駐屯地がおかれている市ヶ谷台には、かつて写真のような建物があった。

 市ヶ谷駐屯地は江戸時代には尾張徳川藩の江戸屋敷があったところである。明治7年(1874)に兵学寮が京都より移転し、陸軍士官学校となった。

 昭和9年(1934)、この陸軍士官学校の校舎として、この「市ヶ谷1号館」は建設された。しかし、陸軍士官学校はその数年後に座間(相武台)・朝霞などに移転してしまい、その後、昭和16年(1941)12月までに陸軍省・参謀本部などが市ヶ谷に移り、この建物を使用することになった。つまり、太平洋戦争時の陸軍の中枢部はここにあり、主要な作戦指導が行われていたのである。(注:戦時になると参謀本部の下に報道や補給部門が編入されて「大本営陸軍部」となる。)
 戦争末期の昭和20年5月になると、100トン以上の船は全て「国家船舶」として国が一元管理することになり、参謀本部の船舶課に海軍省運輸部・船舶運営会・軍需省物動係などから人員を集めて「海運総監部」(総監:野村直邦海軍大将)が設置された。この時期、「陸海軍の統合問題」について政府や軍の上層部で議論があり(栗林兵団長も統合論者であった)、それが一部だけ実現したともいえる。

 戦後、市ヶ谷には第一復員省が設置されたが、まもなく旧軍の施設ということで米軍に接収され、1号館は昭和21年5月から23年11月まで、極東国際軍事裁判(東京裁判)の法廷として使われた。その後も極東米軍の司令部(朝鮮戦争時には国連軍司令部)として使われていたが、昭和34年に日本に返還され、自衛隊の施設として使われることになった。

 返還後、この建物は主に陸上自衛隊の東部方面総監部として使われていた。そして東京裁判以来の注目を集める事件が発生した。昭和45年(1970)11月25日の三島事件である。建物2階にあった総監室に三島由紀夫と「楯の会」メンバーが総監を人質にとって立て籠もり、集められた自衛官に向かってバルコニー上で演説を終えた三島は総監室で割腹自殺を遂げた。

 このように数々の歴史的事件の舞台ともなった1号館であるが、老朽化が進み、また、防衛庁が港区赤坂から市ヶ谷に移転することが決まったため、惜しまれつつ解体された。解体された跡地には新しい防衛庁の庁舎が建設され、東部方面総監部は朝霞へと移転していった。

 陸軍省や参謀本部がおかれていた時代は、当然ながら軍の幹部が多く勤務していたため、市ヶ谷台の地下に巨大な防空壕がつくられていた。この地下壕も今は建物と共に無くなってしまったが、平成5年に作者が見学したときの写真をここに公開する。

(このページの写真は2枚とも平成5年秋に作者が撮影)

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