河石達吾とロサンゼルス・オリンピック

(写真はいずれも遺族提供)

表彰台にて。左より河石、宮崎康二、シュワルツ(米)

広島で行われた祝賀会にて。当時の代表選手は紺のブレザー、白のズボンに丸帽という出で立ちである。

競技終了直後(インタビュー時?)の河石選手
 この大会において、200m平泳ぎは前アムステルダム大会からの二連覇をねらう鶴田義行選手(南満州鉄道)と小池禮三(沼津商業)との競り合いとなった。優勝候補とされていたのは小池の方であったが、体調を崩していたこともあり惜敗した。競技終了後にショックで落ち込んでいた小池を見た河石は彼を励まし、いろいろと面倒を見た。小池は感動し、すでに推薦入学が決まっていたある大学を辞退し、猛勉強の末に河石の通う慶応大学に合格した。そして河石と共に練習に励んだ小池は大学入学の年、200m平泳ぎで世界最高記録を樹立した(しかも2年後にその記録を自ら更新した)。また、河石達吾を破って金メダルに輝いた宮崎康二選手も後に慶応大学に進み、交流は卒業後も長く続いた。

 この大会の後、選手団に対する歓迎ぶりは大変なものであった。大会終了の翌日、現地の日本人・日系人により祝賀会が開かれた。会場のホテルに集まったのは約750人。司会を務めたのは佐藤敏人駐ロサンゼルス領事。そして日系人や在米日本人の有力者が参集した。留学生も次々と駆けつけ、集まった日系人・日本人の中で最初に祝辞を述べたのは、当時南カリフォルニア大学に留学していた三木武夫(のち首相)であった。奇縁と言うべきか、三木武夫の義兄も西竹一・河石達吾と共に硫黄島で戦死している。
 当時はアメリカの人種差別や移民排斥運動が特に激しかった時期だけに、日本選手団の活躍、そしてそれによる日本人への評価の高まりは、日系移民らにとって大変力強いものであった。

 水泳選手団と馬術選手団は9月8日、秩父丸で横浜の大桟橋に到着した。大観衆の歓呼の声に迎えられつつ、選手団は特別列車に乗り込み東京へ向かった。選手団は宮城(皇居)前広場、明治神宮、東京会館、日比谷音楽堂の各祝賀会場をまわった。どの会場にも各界の代表といわれる人物が出席していたのは言うまでもない。
 特別列車や各会場での盛大な歓迎ぶりは前大会時にも次のベルリン大会時にもなかったものであり、空前絶後の熱狂ぶりといってもよい状態であった。

 そして祝勝記念行事として水泳選手団は神宮水泳場にて模範泳法を披露することになり、河石選手も出席した。しかし、選手の大半はその後地道な生活に戻った。河石ら学生選手は学校に戻り、特に中学生選手は受験勉強に専念した。社会人選手も普通の会社員生活に戻った。五輪二連覇の鶴田義行選手に至っては、大会参加中に勤務先の満鉄を欠勤扱いとなっていたため、昇給とボーナスをカットされてしまったという、現在では考えられないような話もあった。

 河石の故郷、大柿町においても河石の銀メダルは大反響を呼んだ。ラジオで第一報が入ったとき、大柿の郵便局の電信機が使えなかったため、小学校時代の担任であった池田先生は江田島郵便局までの8km近くを自転車で走り、ロスへの祝電を打ちに行った。河石の帰郷後、その小学校から町役場を経て河石の実家まで提灯行列が行われ、当時米屋であった河石家には連日、祝辞を述べる客が出入りした。
 河石家は現在、改修されていて当時の面影はないが、家族でお祝いをした六畳の部屋は、ほぼ当時のままの状態で残されている。(一般公開はしていません。念のため。)

戻 る


トップページもう一人のメダリスト>河石達吾とロサンゼルス・オリンピック