戦地にいる将兵たちにとって、最大の楽しみ、あるいは慰めとなったものの一つが家族などとの手紙のやりとりであった。そうしたものの中から、最も作者の印象に残ったものを紹介する。
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左は、ある軍曹が実家に宛てて送った葉書のおもて面である。 「○○×××方」の部分は差出人(○○△△△軍曹)の祖父の名が記されている。形の上では実家に住み込みの受取人宛に出したような葉書であるが、ここに記されている「小笠原硫蔵」という人物は実在しない。言うまでもなく、差出人が自分の居場所を何とか家族に伝えようとして、このような書き方をしたのである。受け取り後まもなく、軍曹の父親はこの名前が「小笠原の硫黄島」を意味することを読みとった。 戦地から出す手紙には、部隊の居場所や行動などを推測させるような事を書くことを禁止されていた。これはサイパン島での例であるが、「島特有の植物、気候、風土についてふれるべからず。甘蔗、パパイヤ等すべて不可」「"南十字星輝くところ"のごときものは不可。ただ"南方戦場"は可」といった内容の2頁にわたる注意書きが将兵に示されたという。このため、将兵は自分の居場所を正確に伝えることは出来ず、家族は戦死の公報を受け取って初めてその赴任地を知ることが多かった。そのような中で、この軍事郵便は早いうちから家族に派遣先を伝えることに成功した珍しい例となった。 葉書の内容は以下のとおりである。(原文縦書き)
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一方、兵士たちが戦地で手紙を受け取った場合はどうであったか。それについてはこんな話がある。
米軍がある日本兵の戦死体から軍隊手帳を回収した。その手帳には持ち主の兵士が受け取った多くの手紙が書き写されており、さらにその後に感想などが書き綴られていた。手紙が全て転記されていたわけではなく、場合によっては急に字が乱れたり、途中で終わっていることもあったが、逆に言えばこれは手紙を書き写すには空襲や作業のわずかな合間しかなかったため、走り書きになったり転記が途中で中止されたからと想像される。(なお、この手帳は戦後12年目に遺族に返還された。)
もちろん、全ての兵士が手紙を自分の手帳に書き写していたわけではないが、そういった実例があるほど手紙は将兵たちにとって大切なものであった。
それにしても、「○○×××方 小笠原硫蔵様」との宛名を見て、検閲する上官が不審に思わなかったとは考えにくい。軍事郵便葉書は兵士一人に支給される枚数も限られており(月に2〜5枚以下)、家族や親族以外の人間に(たとえ実家に住み込みの人であっても)その貴重な一枚を使ってしまうことは稀であろう。よほどの慶事・弔事にかかる内容であれば別であるが、葉書の本文を見ても、家族以外の相手に書く内容とは思えない。ましてその名が「小笠原」に「硫」である。検閲官が差出人の意図に気がつくと考える方が自然であろう。
想像の域を出ないが、検閲官も「小笠原硫蔵」の意味するものを知りながら、体裁上は「部隊の居場所を特定できる記述がない」ことから黙認したのではないだろうか。上官にしても置かれている状況はこの軍曹と大差なく、従って差出人や家族の気持ちを充分に理解できたであろうし、差出人を咎めないだけの人情があったのだろう、と作者は考えている。
なお、葉書の表及び内容については岩手県農村文化懇談会編「戦没農民兵士の手紙」(岩波新書 1961年)に収録のものを底本とした。一部を旧字体から新字体に修正し、差出人及び家族の名前と住所は作者の判断で伏せた。
(追記)
辺見じゅん編著「昭和の遺書 南の戦場から」(文春文庫)にも硫黄島戦没者の手紙が2通収録されている。うち1通は本稿と同じく、暗号により家族に自分の居場所を伝えた事例である。興味のある方にはそちらもおすすめしたい。
(追記2)
この記事を読んだ遺族の方から、「我が家にも暗号を織り込んだ葉書が届いていた」旨のメールをいただきました。この葉書も特別な読み方で「硫黄島」が派遣地であると伝えたものでした。居場所に限らず、何らかのメッセージを暗号で伝えようとした手紙はまだ多くあるのかもしれません。