南鳥島は東京より東南へ約1950km、珊瑚礁でできた小さな島である。北緯24度18分、東経153度58分に位置するこの 島は日本の最東端としても知られている。島はほぼ正三角形に近い形であり、その一辺の長さはおよそ2km、標高は最高地点でも20mほどである。
昭和11年から16年に、日本海軍はこの島に2本の滑走路を設置した。開戦時に配置されていた兵力は海軍将兵約350名であった。そして戦局 が悪化してきた昭和18年3月、さらに島の防備が強化されることになった。当初、陸軍は海軍基地の守備には海軍陸戦隊を充てるべきだと主張したが、海軍の 兵員不足により陸軍部隊の派遣が決まった。昭和18年9月1日の初空襲以来、防備は次第に強化され、昭和19年夏には坂田善市大佐(戦傷死?)率いる混成 独 立第3連隊(歩兵3個大隊、野砲・戦車・通信中隊など2070名)が配属された。海軍部隊も強化され、南鳥島警備隊司令・松原雄太少将の下には15cm水 平砲2門や8cm高角砲3門を主力とした800名近い兵力が配属された。
南鳥島では地上戦こそ行われなかったが、昭和19年5月以降しばしば空襲にさらされ、終戦までにのべ779機が来襲した。日本軍は高角砲や機 関砲で応戦、相当の損害を与えたものの、248名の死傷者を出した。19年10月9日には米艦隊の艦砲射撃も行われ、日本軍も15cm砲で応戦して1隻を 撃沈したとの記録があるが、米側に損害の記録はない。
そして硫黄島陥落後になると本土との連絡・補給も絶たれ、食糧不足から数十名の兵士が栄養失調などで死亡した。戦死・戦病死者の合計は191名となって いる。
終戦になり米軍が降伏勧告に来たとき、守備隊の食料はほぼ尽き果てていた。しかし、降伏の交渉にあたった海軍部隊副官・中村虎彦中佐の対応ぶ りに感服した米司令官は守備兵に最大限の配慮で応え、守備兵は昭和20年9月、日本本土に復員した。この終戦時の中村中佐の活躍については、吉田俊 雄「指揮官たちの太平洋戦争」(光文社NF文庫)をぜひ参照されたい。
なお、記録の上では坂田連隊長は「戦傷死」となっているが、一方で「部下の将校に射殺された」との話が伝わっている。食糧不足が窮めて深刻になったた め、ある尉官が連隊長に島からの撤収を進言したところ、連隊長はこれに反対し、口論の末、激昂した尉官が連隊長を射殺したという。証言者自身の目撃談では なく、作者の調査でも現時点では裏付けをとれていないので、その真偽についてはさらに検証を要する。だが、このような話が存在すること自体、いかに食糧不 足が深刻で あったかの証拠とはいえよう。
(平成10年3月、小島豊明氏撮影)
現在、南鳥島には気象庁・海上保安庁の職員と海上自衛隊員あわせて30数人が在住し、様々な 観測業務や海難救助などの支援を行っている。潮風で減耗していく設備の改修を行う作業員をのぞき、一般の人が訪れることはない。
この南鳥島の写真は設備などの改修のために訪島した小島豊明氏の御厚意により提供いただいたものです。貴重な資料を提供して下さった氏にあら ためて感謝いたします。