ペリー提督と小笠原
父島のペリー提督来航記念碑

 東インド艦隊司令長官ペリー提督は1853(嘉永6)年の5月26日から6月9日まで琉球を訪問した後の6月14日、父島二見港に寄港した。そして同地の移住民代表ナザニエル・セーヴォレーから貯炭場用地を購入した後、18日に出航して再び琉球へ向かった。ペリーは続いて浦賀に来航して日本に開国を要求し、翌年再び浦賀に来航、その年の3月3日、横浜にて日米和親条約を締結した。

 1996(平成8)年5月、これを記念したシンポジウムが父島で開催された。ペリーの出身地であるニューポート市、寄港地となった那覇市、小笠原村、横須賀市、そして日米和親条約により開港となった下田市と函館市から代表が出席した。同時にこの来航記念碑の除幕が行われた。

 なお、ペリーは来航直後の1853年6月25日、海軍長官に宛てて「海軍省にして同群島が合衆国の名によりて占領せらるるを欲せば、本職は直ちに之を実行し、且之を保全するに最前の手段を講ずべし」との上申書を提出して小笠原の占領及び米国領化を主張し、さらに10月には母島群島占領のため軍艦プリマス号を派遣した。プリマス号のケリー艦長は台風シーズンの過ぎた10月下旬、母島に上陸し、以下のような宣言文(「ペリー宣言」とも呼ばれる)を掲げた。

This Southern group of Islands has been explored & taken Possession of by commander
John Kelly & officers of the U.S.SHIP Plymouth under orders from commodore M.C.
Perry on BEHAL of THE U.S.of N.A. This 30 Day OctoBer 1853.

 しかし翌年、日米和親条約締結により米国船は日本本土で補給を受けられるようになったため、小笠原を基地化する必要性は薄れ、貯炭場設置計画も中止となった。

 一方、同じ頃イギリス政府も小笠原の領有権を主張し、日本来航の帰途、香港に寄港したペリーに対し、小笠原群島は日本より先にイギリスが領有しているとの見解を伝えた。ペリーは1853年12月、これを批判する書簡をもって回答し、また小笠原の港湾は1国のみでなく、各国に対する避難所・休養所として開港されるべきと主張した。

 アメリカ・イギリスがお互いに牽制しあったことから、小笠原は欧米の植民地にされることから免れた。その後もいくつかの曲折を経て、明治9年(1876)、小笠原は正式に日本領となり、各国もこれを承認した。

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