南硫黄島について

(平成16年9月12日、作者撮影)

 船上より南硫黄島を望む。写真では雲に覆われているが、南硫黄島の最高地点は標高916mであり、小笠原全島の中で最も高 い。南硫黄島は成層火山ではあるが、過去1万年間に噴火した痕跡はないといわれている。(さらに写真 を見る)

 この島では戦闘は行われなかったが、硫黄島陥落後に米陸軍が上陸したところ、1名の日本人が発見された。米軍が尋問するとこの日本人は遭 難して漂着した漁船員であると答えた。しかし、収容所で硫黄島戦の捕虜達と出会うと、本当は海軍の下士官であり、搭乗機が撃墜されて自分だけが南硫黄島に 漂着し、発見されるまで海鳥の卵を食べて命をつないでいた、と密かに打ち明けたという(村井康彦陸軍中尉の回想)。
 この航空兵は日本人捕虜にも氏名を明かさなかったため身元は不明であるが、おそらくは2月下旬に硫黄島の米軍陣地爆撃のため、木更津から出撃した一式陸 攻の搭乗員と思われる。

 これとは別に、陸軍が特務機関員を派遣していたとの説が存在する。中野学校出身の永松辰見少尉以下4名が無線機や食料などを持って19年 末に硫黄島から渡島し、その任務は硫黄島陥落後の敵情報告であったという。ただし、硫黄島に戻って北地区で戦闘に参加していたとの証言、北硫黄島に渡った との証言(到着の記録無し)もあり、真相は不明である。昭和27年、情報を受けた引揚援護庁が飛行機から手紙や標識などを南硫黄島に投下したが応答はな く、4人については「小笠原方面で戦死」とされている。

 硫黄島や北硫黄島には戦前、居住者がいたものの、南硫黄島は昔から無人島であったため、手付かずの自然が残っており、原生自然環境保全地 域に指定されている。しかし現在の南硫黄島は周囲が荒波に浸食されて断崖になっており、入江も砂浜もないため接近さえ困難である。
 このため、本格的な学術調査は昭和57年6月と平成19年6月の2回しか行われていない。2回とも6月であるのは、この時期でないと海が荒れて上陸が危 険なためである。また、2度の調査ではいずれも山頂に到達することに成功したが、ルートはほぼ同一である。これも登攀可能な箇所が他に無いからである。勾 配の平均は約45度であり、落石もしばしば発生する。上陸地点の気温は日中には50度近くに達し、一方、山頂付近は夜にはかなり気温が下がることもあるた め、隊員の疲労も相当なものであったという。
 また、調査の際に生態系を乱すことのないよう、調査隊の装備や活動には厳しい制約が科された。外部の土壌や生物などが混じり込まないように、持ち込む装 備品は新品であることが原則であり、さらに東京での出航前、さらには父島でも装備品を冷凍庫に入れて保存し、外来生物が侵入することを防止することなどが 行われた。
 
 なお、明治18年に函館沖で遭難した船が漂着、男女あわせて3人がこの島に上陸し、約3年後に発見されたという事件があった。自然が豊かだったので生き 延びることが出来たのである。


* この写真は小笠原海運が特別に主催した「硫黄島三島ツアー」に参加して撮影したもので、通常、同島に近づく船便 などはありません。
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