海軍設営隊の基礎知識
設営隊の構成
 ここで、海軍設営隊の基本的な構成に触れておきたい。設営隊には甲編成(定員1000名強)と乙編成(約680名)があり、第二〇四設営隊は甲編成であ る。ただし、定員と実員は必ずしも一致せず、同部隊は当初約1100名であった。
 以下、甲編成での一般的な内訳である。
組織と任務 人 数 備   考
設営隊本部 26名 隊長は中佐か少佐
第一中隊(工作機械) 約150名 ブルドーザー、ローラー車など約20台、トラック約20台
第二中隊(飛行場整備) 約260名 土工員250名
第三中隊(居住・桟橋・耐弾施設) 約260名 建築員90名、土工員90名、架橋員40名など
第四中隊(隧道・その他) 約260名 土工員、石工員、測量員、水道員など
運輸隊・医務隊・主計隊・通信隊など 約95名 大発(上陸用舟艇)9隻など
佐用泰司「海軍設営隊の太平洋戦争」(光人社NF文庫)第6表、第8表に基づき作成

 戦争の初期、設営隊は「特設設営班」と呼ばれ、幹部は文官(技師、技手)であった。その後、幹部に技術科士官が登用され、次第 に下士官・兵も軍属から軍人へと待遇を変えていくが、実態としては完全に転換することは出来なかったようである。小銃も定数どおりなら約830挺装備され ることになっていたが、実際にどれだけ支給されたかは不明である。「銃器が不足していたので手製の武器(火炎瓶や手槍など)を使ったり、土木作業用の爆 薬、ツルハシ、円匙(スコップ)を手にして戦うしかなかった」という状況は硫黄島に限らず、多くの設営隊に共通していた。(もっとも、「日本刀より円匙の 方が折れにくいので武器として使えた」との回想もあるし、海外の戦記にも「白兵戦の時にスコップを振り回した」という記述はある。)

軍属の待遇と地位
 ところで、設営隊の中心となった「軍属」について、「軍属は二等兵以下として、軍馬並みかそれ以下のひどい扱いだった」と考えている人も多いようである が、必ずしも悪い待遇とは言い切れない。もちろん、労働基準法など存在しない時代であるから、職場の環境はいわゆる「タコ部屋」同様のところも多く、休日 は月に2日だけであった。だが一方で、戦争後期の軍曹の給料が月30円、同時期の土工員の軍属で月収(基本的には日給制)は約40円であり、特殊な技量を 要する職種ならさらに待遇は良かった。戦地加算(例えばマリアナ諸島なら2倍、パラオなら3倍)もあるので金額の差はさらに開く。実際、陸軍を上等兵で除 隊した後、「兵卒で再召集されるぐらいなら、少しでも収入が期待できる軍属に志願した」ような例もある。
 職場での「いじめ・暴行」などについても、「軍直轄の職場より、軍の仕事を請け負った民間企業のほうがひどかった」とする証言も存在する(民間の方が全 て悪かったという意味ではない。そういう事例もあったということである。念のため)。
 他の職場も劣悪な環境だったから、それとの比較の上ではあるが、当時の感覚からすれば、決して悪い職場ではなかったともいえるのではないか。

 軍属の地位についても誤解が多いようなので付記しておく。技術系の軍属の場合、下から順番に見習工・工員・職長・雇員・技手(ぎて)という階級があり、雇員は下士官(いわゆる軍曹)、技手は尉官に準ずる扱いを受けていた。確かに大部分の軍 属は工員、つまり兵卒に準ずる扱いであるから、「二等兵以下の扱い」を受けることも多かったであろう。けれども、少数とはいえ雇員以上の軍属は判任官とし て相当の地位が与えられていたことも事実である。軍属というだけで奴隷同様に考えてしまうのは早計である。
 原則として後方勤務であるが、女性の軍属(主に事務員)もおり、雇員クラスまでの昇進が認められていた。また、看護学校出の看護婦も雇員として扱われて いた。だから兵卒の方から女性軍属に敬礼をすることもあったのである。

機材の不足
 話を設営隊に戻す。設営隊の苦難の原因は、「軍属としての扱い」よりは機械化の遅れにより生じたものが多いと思われる。
 開戦当時、日本の設営隊は作業の大半を人力に頼っていた。当時の日本で土木工学のレベルは決して低くはなく、設計や測量などは世界に通用するだけの実力 があった。ところが現場では昔ながらの人海戦術による施工方法が行われており、機械化には程遠かった。
 外国では1930年代初頭に普及が進んでいた重機類の導入が日本で遅れたのは、「土木・道路工事などには失業対策の要素があるため、機械化による省力化 は不要(むしろ政策上有害)である」及び「人件費が安いから、高価な機械など導入する必要がない」との考え方が官民双方に広く存在したのが一因といわれて いる。
 
 このような認識のまま戦争に突入し、開戦直後に占領したウェーク島で、アメリカ軍捕虜に対して「飛行場整備のため300名の捕虜を使役したい」と申し入 れたところ、「それなら3人で可能である」との回答と共に3台のブルドーザーが現れてたちまち作業を終了させ、日本側が驚いたという有名な話がある。
 こういった出来事などがきっかけとなって重機類の必要性を痛感し、あわてて陸海軍共に同様のものをメーカーに発注したが、両者の示した仕様・規格が微妙 に違う(当時は陸海軍省を含め、各省庁が独自の仕様や規格を採用していた)ために設計・開発は大幅に遅れ、もちろん生産ラインの一本化も出来なかった。大 量生産をしようとしても、主要工場は兵器の生産に追われ、重機まで手がける余裕はなかった。

 重機類が普及していないということは、操作・整備を行える人員もいないということである。戦争の後期になり国産の重機も徐々に生産されたが、 自動車の運転手や整備士に重機も扱わせるという状態であり、その自動車関連の労働者も、アメリカに比べれば極めて少なかった。個々の重機の操縦や整備が出 来たとしても、多数の重機を効率よく指揮監督できる人材は建設業界にもまれであった。したがって機械類を充分に使いこなせず、人力の補助にするのが限界で あり、そして故障してしまえば結局は人手頼みであった。

設営隊の運用上の問題
 人手に頼る部分が多いということは、戦場に送られる軍属の人数を増大させ、これにより食料などの補給の必要量も増大するということになる。日本軍はもと もと補給能力が低かったために食料等を十分に供給できず、多くの設営隊員が栄養失調で倒れ、作業能力の低下を補うためさらに多くの人員を投入する、という 悪循環を招くことになった。さらに設営隊の展開している島が攻撃されれば、武器も少なく、戦闘訓練を充分に受けていない設営隊は多くの犠牲者を出す結果に なったのである。

 もう一つ、設営隊が苦戦した理由に、海軍上層部の無理解も挙げられよう。海軍上層部は戦術的な意義のみが検討され、土木技師の視点で考える人 物はいなかった。このため、戦術上重要な場所とされれば、地質や風土についての検討もなしに飛行場用地と決定し、設営隊を導入することもあった。そして投 入された設営隊が測量を実施し「基地建設に不適当な土地である」と報告しても、計画見直しが行われることはなかったと伝えられる。機械化が遅れていたため 効率の悪かった設営隊は、技術的な合理性を欠く命令によりさらに非効率的に運用されたのである。
 

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