用語解説  <ラッテ期>

ラッテストーン概念図ラッテ とは何か

 ラッテ(latte)・ストーンとは、マリアナ諸島の先史文化を代表する石柱遺構で ある。右図 に示したように2列に並んだ石の柱であり、柱石部分と載石部分からなる。
 地面から載石の上面までの高さは2m前後のものが多い。図では4対の柱であるが、3対から6対までのものが報告されている。柱に囲まれている長方形の部 分は長軸が7〜12m、短軸は3〜4mほどのものが多い。マリアナ諸島の多くの島から発見されているが、サイパン島の一部で安山岩製のものがあるのを例外 として、全て石灰岩で作られている。舟を着けやすい砂浜や河岸に近い場所に作られたものが多いという。
 このラッテストーンが作られた目的については、以下のような説が出されている。
    1. 建築物の礎石
    2. 祭祀施設
    3. 墓地・埋葬施設
 最有力の説は礎石とする見方である。載石の上に床が作られ、壁は作らずにそのまま屋 根が載せられる。出入り口は床に設けられる、といった高床式の建築物を作るための礎石だというわけである。先述したように水に恵まれた場所に多く、かつ チャモロ人の分布していた地域とほぼ重なることが、その理由の一つである。
 祭祀施設とする説は、礎石としての不自然さを指摘している。ラッテ石がその上に載る建物に耐えられるかどうか疑問の物があること、あるいは中には高さ 5mを 超えるラッテもあり、その上に家屋を建てるのは不自然であること、などという理由で、実用性のある施設ではなく、祭祀施設あるいは何らかの権勢の象徴とみ なす説である。
 墓地・埋葬施設とする説は、マリアナ諸島で発見された遺骨の多くがラッテ石の柱間や周囲から発掘されたこと。さらに埋葬品と思われるものも見つかること による見方である。
 ただし、埋葬施設であることはラッテが建築物の礎石であることや祭祀施設であることを否定するものとはいえない。埋葬施設が祭祀施設を兼ねることは日本 人から見ても不思議ではないであろう。また、パラオ諸島やキリバス諸島では歴史時代に入っても遺体(の一部)を居住空間内に埋葬する風習があった。した がって、ラッテが住 宅であり、同時にその礎石周辺が墓地であったとも考えられるのである。

マリアナ先史時代とラッテ期

 マリアナに人類の痕跡が現れるのは約3500〜3800年前である。マリアナ赤色土 器と呼ばれる土器、さらに貝製品がサイパン・テニアンから発見されている。この時代にポリネシア地域では海洋民族であるラピタ人の文化が栄えていた時代で あるが、土器の形式などからマリアナ先史人の第一波はフィリピンから来たものと考えられている。ただし、土器以外の文化についてはラピタ人との共通性が高 い。ラピタ人もルーツは不明であるが、インドネシア・フィリピン方面で二手のグループに分かれて拡散したとも考えられている。
 マリアナはミクロネシアの中では最も古くから人間が住み始めた地域である。しかし、土器や石器が大量に作られるようになるのは6世紀以降になってからで あり、さらにラッテが作られるようになるのは9世紀に入ってからである。これ以後のマリアナ先史文化が大いに栄えた時代(9〜16世紀)を「ラッテ期」、 それ以前は「先ラッテ期」と呼ばれている。マリアナの磨製丸ノミ形片刃石斧は、この時期にラッテを削り出すための道具として盛んに作られたものと考えられ ている。
 ラッテ期はオセアニアの他の海洋民族も大いに発展した時代であり、ハワイを初め南太平洋の多くの島に進出し、一部は南米にまで到達した。だが、大航海時 代が始まると太平洋の先住民は西洋人に支配されることになった。マゼランの来航後、マリアナ支配を進めたスペインは先住民の反乱を抑えるため、 1695〜98年に全ての チャモロ人をグアム島に強制移住させて監視下においた。これによりチャモロ文化の伝承はグアム島を除き、断絶してしまうのである。それはマリアナ先史文化 の終焉でもあった。

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