北硫黄島・石野遺跡について北硫黄島
 北硫黄島は硫黄島の北約70kmにある周囲約9km、標高804m(榊ヶ峰)の急峻 な地形の島である。戦前は2つの村に合わせて200名ほどが生活していたが、戦後は無人島である。だが、この島からは小笠原で最大かつ重要な遺跡が発見さ れてい る。
(右写真:北硫黄島を船上から望む。平成16年9月作者撮影)

1 丸ノミ型磨製石斧の発見

 大正9年(1920)、東京大学植物学研究所の調査団はマリアナ諸島での調査を行い、帰路に北硫黄島の調査も行う予定であっ た。し かし荒天のため上陸できず、沖合で停泊することになったが、このとき島の警察官がはしけに乗って船を訪れた。警官は調査団長の中井猛之進教授に面会を求 め、村長の 石野平之丞から預かってきた包みを手渡した。
 包みの中身は島内で発見されたと思われる3本の石斧であり、後に植物学研究所から人類学研究所へと寄贈された。昭和13年、人類学者の八幡一郎は論文中 で縄文時 代の乳棒状石斧を紹介し、少し形式が異なる石器が北硫黄島及びマリアナ諸島から発見されていると述べた。昭和17年、考古学者の甲野勇はこの石斧の一つを 人類学の学会誌にて紹介し、マリアナ諸島で類似の石器が出土していると指摘した。このようにして小笠原の先史文化は研究者達に知られることとなったが、戦 争及び米軍の小笠原統治により、この地域の調査や発掘は20年以上不可能となっていた。
 3点の石器については昭和53年(1978)に小田静夫氏により調査が行われた。いずれも玄武岩製の磨製石器であり、以下の表はその結果である。(石 器のデータは小田『黒潮圏の考古学』104〜105Pによる。)
No.
形  状
最大長(cm)
最大幅(cm)
最大厚(cm)
重量(g)

丸ノミ形石斧
18.2
5.0
9.5
635

丸ノミ形石斧 19. 0
5. 3
4. 2
625

片刃石斧
14. 0
5. 0
2. 1
121
 なお、これらの石器は北硫黄島内で発見されたことは確かだとされるが、詳しい発見場所は不明であり、またおそらくは表土採集と思われる。そのため年代な どは不明である。そして類似を指摘されているマリアナ諸島の丸ノミ形石斧はラッテ期(AD.800〜1600 頃)と呼ばれる時代の遺物であ る。後にこの形式の磨製石斧は父島と八丈島からも発見されている。

2 北硫黄島・石野遺跡の発掘

石野遺跡周辺(旧石野村) 平 成2年と3年に東京都教育委員会は北硫黄 島で 遺跡調査を行った。大正時代に磨製石器が発見された旧石野村に重点が置かれた。
(写真は旧石野村周辺:平成16年9月に作者撮影。写真中央から左側の平坦地である。)
 2年には考古学的な発見はなかったが、3年(1991)には探索の結果、旧石野村北部、標高50〜100mの段丘斜面表層、50×20m程の範囲から土 器・石器・貝製品などが発見された。さらに村を見下ろす高台部に積石群・配石群の存在が確認された。
 土器は厚手・薄手の2種類あり、厚手のものは大型で深鉢形が多く、薄手のものは浅い皿形土器であった。いずれも無文であること、また胎土分析から、縄文 式ではなくマリアナ式の土器に近いと考えられている。
 石器は打製石斧・スクレイパー(削器)類・クサビ(?)などが発見された。これらはいずれも北硫黄島産の玄武岩を材料としたものと考えられている。しか し大正時代に発 見されたような磨製石斧は発見されなかった。打製石斧のうち1点は長さ27cmを超える大型のものであるが、他の石斧は最大長が10cm以下であり、いず れも大きさ、形式ともに大正時代に発見された石器とは相違している。他の遺跡からの出土品と比較すると、 マリアナ諸島で発見されている打製石斧は数が少ないため、関連性は不明である。どちらかといえば南西諸島や伊豆諸島のような黒潮文化圏との共通性が認めら れる。
 貝製品はシャコガイ製であり、中には人為的に整形加工したものもあった。これはマリアナ諸島で出土するシャコガイ製貝斧と類似した特徴を持っている。  このシャコガイを放射性炭素年代測定により分析したところ、約2000年前のものであるとの結果が出た。
 このほか、自然遺物として海亀、イノシシの骨、シャコガイなどが発見されている。
 遺構としては積石群・配石群3基が確認された。一番上に鏡石を置いた祭壇風の遺構、積石遺構、線刻画の入った巨石である。
確認された積石 遺構等(図は小田静夫『黒潮圏の考古学』126Pより転載)
祭壇風遺構
積石遺構
線刻画の入った巨石
1.中央に鏡石を置いた祭壇
2.積石遺構
3.線刻画の入った巨石。
 祭壇は北硫黄島で産出する玄武岩の大石を積み上げ、上段中央部に高さ1.2mの石を載せている。祭壇の前には100u程の平坦地があり、広場のように なっている。積石遺構はこれ以外にもあると推定されるが、祭壇近くの少し低い場所で確認されたこの遺構は長径が1.5m、短径0.6mほどの規模であり、 両端にサンゴ石とシャコガイを対に配置したところが特徴である。これからさらに下がった場所、ただし海上からも見える位置に線刻画の入った巨石がある。岩 は高さ1.6m、幅1.5mであり、80×90cmの平坦面に絵が彫られている。(以上、小田前掲書124〜127Pより)
 石野遺跡の出土品はマリアナ諸島の要素が強いが、伊豆諸島や沖縄、さらにフィリピンや他の太平洋文化との関連も指摘されている。

3 遺跡・遺物の問題点・及び作者の考察など   

○ どこまで当初の形を保っているのか
 海軍警備隊・北硫黄島派遣隊長として昭和19年7月から1年近くこの島に滞在した遠藤喜義氏は「我々は在島時、高射機関砲を据え付ける台座を造るために 石を積み上げたり、大きめの石を集めて陣地を作ったりもした。それを遺跡と誤認していないだろうか。」と作者に語ってい る。 その後さらに調べたところ、旧島民が「積石は戦前からあった」と証言しているので、何もない所に日本軍が築いたものではない。だが、元からあった遺構に人 の手が加えられた可能性は否定できない。
 また、軍の陣地とは別に、石野村は旧島民の生活の中心であったことも見逃せない。開拓民たちが石野村に集まったのも、そこが平たい場所であったからであ る。用地を確保するために大きな石などは邪魔にならない場所へ移動させたということは十分にあり得るし、石材として利用した可能性もある。
 遠藤氏はさらに、昭和50年代に遺骨収集(注:北硫黄島では8人が戦死)に訪れたときの体験を語って下さったが、「場所によっては40年間で数m近く隆 起していたため、現場に着くのにずいぶんと苦労した。こんなに地形の変動が激しい島で、2千年も前の遺跡が地上にそのまま残るものなのだろうか」と不思議 がる。地殻の変動が激しいと言うことはかつてはもっと遺跡が海面に近いところにあったと仮定することも出来る。その場合、台風や津波による改変も否定でき なくなる。また、厳しい自然条件から考えて、露出している遺跡等は風化してしまうことも考えねばなるまい。「祭壇」前の平坦な広場も、当時のままと考えて よいかは疑問である。
 特に積石遺構については当時の地形やその後の地殻変動、小笠原周辺の気候の変動といったことも含めての調査が今後の課題であろう。

○ 未発見の物について
 小笠原の考古学調査において未発見の物といえば、まずは人骨である。今後発見されればそのルーツも解明される可能性は高い。石野遺跡は積石などから「集 落地というより墓地・祭祀遺跡としての性格が強い」(小田:前掲書127P)のであれば、人骨が発見される可能性は充分に 考えられる。ただし、祭祀遺跡であると同時に生活の場であったとしてもおかしくはないと作者は考える。マリアナのラッテ遺跡は高床式住宅の礎石とされる一 方で、その周囲から埋葬人骨が出土している。また、南太平洋地域でも住居内や直近に遺体や遺骨(の一部)を葬る例があるからである。未完成の石器や製作時 に生じる剥片・砕片が発見されていることからも、積石遺構の周辺は生産=生活の場でもあったと作者は考える。なお、鳥・獣骨は発見できても人骨のみ発見で きない場合、水葬の風習があったと考えることも可能になろう。南太平洋にはこのような風習があった地域もあることから、その意味でも南方との関連は推測で きるかもしれない。
 他に鏃(やじり)が挙げられる。八丈島の倉輪遺跡では石鏃が出土している(湯浜遺跡では未発見)一方で、マリアナ諸島での出土 は作者の調べた限りでは見あたらない(植木武『南太平洋の考古学』62p表4、印東道子『オセアニア 暮らしの考古学』109Pなど)。 したがって、鏃が発見されれば伊豆諸島との関連性が浮上してくることになるし、逆に、将来大規模な調査が行われても発見できなければ、南方からの渡来者で あった可能性がより高くなる。また、マリアナで多数発見されている石器に投弾石があり、その多くは ラッテ期のものである。投弾石は国内では弥生時代の物が一例あるだけなので、発見されればラッテ文化との関連性の証明になりうる。
 遺物ではないが、タロイモについての指摘もある。太平洋の先住民にとって主食とも言えるタロイモ類であるが、小笠原で植生しているタロイモはDNA調査 によりハワイから持ち込まれたものと判明している。マリアナ諸島からの計画的な移住や交流があったとすれば、そのときにタロイモが持ち込まれたはずである が、現在のところ、北硫黄島においてミクロネシア系列のものは見つかっていない(ただし、調査自体がそれほど行われていないことは考慮する必要がある)。 このことから印東道子氏は「北マリアナの住民が火山の噴火から逃れるためにカヌーに飛び乗り、北硫黄島に 漂 着したのではないか(つまり持ち込む余裕がなかった)」との仮説を立てている(「マリアナ考古学から見た小笠原」
『小笠原諸島他遺跡分布調査報告書』収)。作者もこの仮説を支持したい。これは、定住者はいたが、マリアナ諸島との定期 的な交流 はなかったということも併せて意味しているといえる。

○ 年代測定の精度について
 先述のとおり、遺跡の年代の手がかりとされたのはシャコガイのC-14年代測定であるが、約2000年前という結果は貝が死んだ時の年代である。後世の 人間が死貝を加 工して貝斧にした可能性や、別のところで作られた貝斧が後になって持ち込まれたとも考えられる。
 一方で、平成の調査で発見されたのは打製石器ばかりということも考えねばならない。現在確認されているマリアナ先史人の土器文化は約3500年前まで遡 る。だがマリ アナの石器は表土採取が多いので年代不明のものが多いが、先述のように磨製石器が中心であり、打製石器中心の時代が存在したかどうかは確認されていない。
 一方、火山列島の北にある近隣の遺跡としては八丈島の倉輪遺跡(約5000年前)、湯浜遺跡(約6500年前)が知られる。倉輪遺跡は磨製石器が主 流であり、土器など他の出土品からも本土の縄文社会と交流があったと見られている。湯浜遺跡は打製石器も多く、また土器は無文である(形状は石野遺跡とか なり違 う)。なお湯浜人のルーツや他地域との関連などは不明な点が多い。また、大型打製石斧は石野 遺跡の他に沖縄から発見されている。これはさらに古く約7000年前とされる。もちろん、これだけで石野遺跡と共通であるとすることは出来ないが、技術水 準はこの時代と同程度と考えて良いのではないか。マリアナからであれ、黒潮文化圏からであれ、打製石器文化が持ち込まれたのはかなり古い時代だったと考え ることも出来るのである。
 石野遺跡の打製石器人と、丸ノミ形石斧を作った人々とは違う時代の存在であり、前者は紀元前のやや古い時期(出発地 は不明)に、移住し、後者 は紀元後のラッテ期にマリアナから渡来(おそらく漂着)したと作者は考えている。なお、紀元後の八丈島では弥生時代から奈良時代までに相当する八重根遺跡 などの存在が知られ ており、本州と定期的に交流するだけの航海技術を有した先史人がいたことは確認されている。縄文時代から弥生時代にかけての伊豆諸島からは関東系だけでな く関西系 の土器も発見されているところからも、先史時代の伊豆諸島では南関東や東海地方とかなりの往来があったとされ、遭難した舟が小笠原まで漂着することも時に はあったはずである。積石遺構を残した人々は集団での移住と考えるべきであろうが、石野遺跡は漂着した先史人の遺物が長年にわたり蓄積されて形成されたと 考えることも可能である。北硫黄島で人の居住に適した場所は限られているから、違う時代の生活の 痕跡が同じ場所から発見され ても不自然で はない。
 その後、北硫黄島の調査は平成5年にも行われたが、不幸にして事故が発生し中止と なった。
 いつの日にか調査が再開されることを期待したい。

参考・引用文献

永峯光一・小田静夫・早川泉編『小笠原諸島他遺跡分布調査報告書』東京都教育委員会 1992年
東京都教育委員会『小笠原諸島の考古学的資料集成』東京都埋蔵文化財調査報告 第19集 東京都教育委員会 1992年
小田静夫・水山昭宏編『発掘された小笠原の歴史』 小笠原村教育委員会 2002年
小田静夫『黒潮圏の考古学』第一書房 2000年
小田静夫『遙かなる海上の道 
日本人の源流を探る黒潮文化の 考古学』青春出版社 2002年
橋口尚武編『海を渡った縄文人 
縄文時代の交流と交易』 小学館 1999年
橋口尚武『島の考古学
−黒潮圏の伊豆諸島UP考古学選書3 東京大学出 版会 1988年
印東道子『オセアニア 暮らしの考古学』 朝日選書 2002年
印東道子「ミクロネシアへの拡散」(大塚柳太郎編『モンゴロイドの地球2 南太平洋との出会い』東京大学出版 会 1995年)

植木武『南太平洋の考古学』学生社 1978年
片山一道『海のモンゴロイド ポリネシア人の祖先を 求めて』吉川弘文館 2002年

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