「浅田中尉の遺書」は実在したのか
 閣下のわたし等に対する御親切なる御好意誠に感謝感激に堪へません。閣下よりいただきました煙草も肉の缶詰も皆で有難く頂戴いたしました。御奨めによる降伏の儀は日本武士道の慣として応ずることはできません。もはや水もなく食もなければ十三日午前四時を期して全員自決して天国に参ります。終わりに貴軍の武運長久を祈りて筆を止めます。
 昭和十九年五月十三日
   日本陸軍中尉 浅田 眞二
米軍司令官 スプルアンス大将殿 」

 このような遺書を残し、摺鉢山地区で5月まで抗戦を続けた浅田中尉以下数名は手榴弾で自決した、とする話が戦史叢書にある (P377)。この話もしばし ば硫黄島戦記で(大抵は美談として)紹介されるが、作者はこの遺書の存在に疑問をもっている。(ついでながら「昭和十九年」は当然誤りである。しかし単純な誤記としておく。)

 戦史叢書によれば、この話は武蔵野菊蔵中尉の回想となっている。そこで武蔵野中尉の手記「吾等はかく戦いかく敗れたり」(『硫黄島決戦』収録 蒼樹社 刊 昭和27年、以下「武蔵野手記」とする)から該当の箇所を抜粋すると、以下のようになる。
 彼は五月十二日いよいよ自決の決心をかためた。当時の米軍司令官スプランス将軍に遺書を残し、亀田工兵軍曹以下数名と共に自決を決行したのであった。(P32)
 そして冒頭に挙げた遺書が引用されており、文章はほぼ同一である。そして遺書が発見されたときの状況が記される。 
 彼は右の如き遺書を防空壕の入口の木にはさんで立て十三日午前六時半、手榴弾三発をもって自決を決行したのである。全員東 の方を向き天皇陛下万歳を唱え、日本国民の多幸を祈って死についたのである。このことはわたしがただ一人戦場をさまよっている時、突然出喰わした一人の兵士から聞いたのである。遺書は誠に達筆であった。浅田中尉が死についたのは午前六時だという。死ぬる時の人間の気持ちとして、二時間の間皆で色々話を交 し、この世のなごりを惜しんで死出の旅路についたと思われる。(P33)
  「このことはわたしがただ一人戦場をさまよっている時、突然出喰わした一人の兵士から聞いたのである。遺書は誠に達筆であっ た。」ということは、現場 を発見したのは日本兵であり、かつ遺書は日本語で書かれていたと読み取れる。最初に発見した日本兵は三発の手榴弾が爆発する音を6時過ぎに聞き、現場に駆けつけて手紙を発見したということなのであろうか。

 ところが、この手紙は米軍が見つけた、とする戦記もあるし、中には上記の遺書を米軍に向け打電したとするものもある。打電となると、まず米軍の受信記録 が存在しなければならない。そうでなければ遺書が残りようがないからである。そして内容も英文だった可能性が出てくる。しかし、現在のところ、米軍の「受信記録」や、「発見した手紙の現物」の存在を作者は知らない。また、武蔵野中尉の証言との食い違いも出てくる。遺書を最初に発見した日本兵が、内容を確認 した後に元の場所に戻し、それを米軍が発見した、という可能性はあり得るが、第一発見者が内容を正確に記憶して武蔵野中尉に話し、中尉が戦後になって記憶 を頼りに遺書の内容を復元することが出来るものだろうか。こういったことから、上記の遺書が本当にあったのか、少なくとも原文通りなのかが疑問点として出てくる。
 実は、「武蔵野中尉が戦場で出会った兵士から遺書の話を聞いた」という部分は戦史叢書に書かれていない。したがって「米軍が遺書を発見」と記述している人は戦史叢書の記述だけを読んで、そのように推定したものと思われる。打電という説についてはどの文献が初出なのか未だ不明であるが、 先述のように不自然であることは確かである。

 それならば武蔵野手記の記述が正しいかどうか検証することになるが、同手記に対しては、これまでも多くの問題点が指摘されていることを考慮する必要があ る。そもそも武蔵野手記が収められている『硫黄島決戦』には部下であった加藤康雄上等兵の手記「兵らまた硫黄島に戦えり」も収録されているが、内容にはかなりの食い違いがある。この点については、「戦史叢書」は階級が上位に ある人物の証言を採用する傾向にあるため、編集者は相違点に気が付いていたとしても武蔵野手記をそのまま採用したと思われる(「戦史叢書」編纂時には二人とも存命であったので、本来なら両者にあらためて確認すべきであった)。
 武蔵野手記は戦史叢書において、しばしば引用されているため、その後に日本で出される硫黄島戦記に大きな影響を与えた。しかし一方で、小谷秀二郎『硫黄 島の死闘』(サンケイ出版 昭和53年)などにおいて、米軍戦記との食い違いが指摘されるようになった。さらに遺骨収集に伴う当時の行動記録の発見や、米公文書館に保存されていた戦没日本兵(高野四郎曹長:武蔵野中尉の部下)の日記などとの照合から、武蔵野手記は多くの誤りや脚色があることが明らかになっている。な お、この高野日記は加藤上等兵の手記と共通点が多く(上官に対する兵士たちの感情まで)、加藤手記の方がより真相に近いことを裏付ける材料ともなっている。

 このように、初出文献である武蔵野手記そのものの信頼性が低いということになれば、この浅田中尉の遺書については慎重に取り扱うべきである。全くの作り話と断定するだけの証拠はないが、遺書の内容や当時の状況が正しく伝えられているかについては疑わしいからである。仮に淺田中尉が何か書き残したとしても、全く別の内容であったこともあり得るのである。

 ところで、浅田中尉については「東大出身」ということを書き添えている戦記が多い。そのため青年として扱う書物が多く、中には学徒出陣だったと誤解されている方もおられるが、淺田が東大経済学部を卒業したのは昭和6年(1931)である。したがって硫黄島戦のころには四十近い年齢となるからこれは誤りである。また、一途な愛国青年・殉国の英雄のような扱いをしている書物が多いが、淺田中尉はそのような単純な位置づけをすべき人物ではない。実は作者が淺田真二の大学卒業年次を確認した資料は「東大新人会会員名簿」である。「東大新人会」はマルクス主義者の団体であり、淺田が在学していた時期の新人会は特に急進派が多かった時期である。この点だけでも、「一途な愛国青年」という描き方が安直であることがおわかりであろう。ただし、淺田真二が実際に急進的な運動家であったのかどうかを確認できる資料はない。経済学徒としてソビエトの計画経済政策に興味があっただけの可能性もあろうし、淺田と同時期に東大を卒業した人物による「すでにヨーロッパからソ連の問題点を伝える記事も入ってきたので、新人会にもマルクスやソ連に疑問を持つものがいた」との証言もある。もちろん、このころは急進派・革新派であったとしても、その後も同じ思想を持ち続けたとは限らない。日記なりノートが発見・公表されない限り、淺田の真意はわからないだろう。そして、話を本題に戻せば、仮に淺田中尉が何か書き残したという事実があったとしても、マルクス主義に傾倒した人が冒頭のような文章を書くのは不自然ではないだろうか。
なお、「天国に参ります」という一文から連想したのか、淺田中尉を「クリスチャン」としている書物もあるが、遺族は否定している。

(初出:平成19年11月3日:最終更新日平成23年11月16日(水))

 
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