「バロン西への投降勧告」考 第2章 〜 サイ=バートレットによる「呼びかけ」について 〜
 平成18年(2006)12月に映画「硫黄島からの手紙」が公開された。同映画には「バロン西への投降勧告」シーンはなかった ものの、映画パンフレット に「プロダクション・ノート」として以下の記述があった(筆者名はなし)。
 栗林中将と同じく、バロン西もアメリカを友人と考えていた。それに関して、ローレンツ(注1)た ちはリサーチ中に、ロサンゼルス滞在中のバロン西を知っていたサイ・バートレットというアメリカ人フィルムメーカーの逸話を発見した。「バートレットは、 米軍が硫黄島を占領した後で島に到着し、友人のバロン西がそこにいることを知った」とローレンツは説明を続ける。「それで彼は拡声器を使い、彼に投降するよう呼びかけたんだ」。「『バロン西、あなたは私たちの友です。出てきてください』というアメリカ側の呼びかけを耳にしたとき、彼がどんな心境だったかを知りたいよ」と伊原(注2)は言う。
(注1) ロバート=ローレンツ 製作スタッフ   (注2) 伊原剛志 バロン西役
 これを読んだ方から「『投降勧告』は創作ではなく、事実である」との御指摘があったので(そういった指摘自体は大歓迎です)、 作者なりの考えを記すことにする。

 サイ=バートレットという人物については、吉橋戒三『西とウラヌス 西竹一大佐伝』(私家本 昭和44年)に記述がある。そこには以下のような記述があ る。
 ロスアンゼルス大会で、西中尉が馬術練習に励んでいたリベラ・カントリー・クラブで、西中尉に非常に可愛がられたひとりの アメリカ青年(当時十九歳)がいた。
 彼の名はサイ・バートレットといい戦時中は空軍将校として従軍し、日本爆撃の命を受けたが、そのとき彼は西中尉の祖国を爆撃することに対して非常に悲し んだ。
 たまたま彼の乗機は被弾し、帰途、硫黄島に不時着した。むろん西大佐が、すでにこの島で戦死したことを知る由もなかった。そして危うく一命をとりとめた のであった。
 戦争が終わり、彼は映画界に入り名の知れたプロデューサーとなって、昭和四十年十月に来日した。そして西の消息を探し求めた結果、はじめてことの仔細を 知って、大いになげいたのである。(同書70頁)
 
  これによると、バートレットは戦争中に硫黄島を訪れたという点では共通しているものの、その時点でバロン西が硫黄島にいたことを知っていたかどうかについて、双 方の記述は全く異なる。その点を中心に、双方の記述を分析してみることにする。

 まず、両者に共通する、搭乗していたB29が日本空襲時に被弾し、帰途、硫黄島に緊急着陸したという記述は事実だとしても、その場合、パンフレットにある 「呼びかけ」につ いて以下の疑問点が出 てくる。
 仮に不時着したのが戦いの続く、かつ西が生存していた3月中旬であったとすると、B29の緊急着陸場所は西の守る東地区から遠い千鳥飛行場であった上、 在島米軍の主力は指揮系統の違う海兵隊であった(B29は陸軍航空隊)。この場合、上記のうち2点への疑問はさらに増すことになる。5月以降であれば島内での戦闘は散発的になっており、島の確保も米陸軍になっていたので多少は条件が変わってくる。また、この時点なら硫黄島守備隊の中に西竹一がいたことを米軍が知っていてもおかしくはないが、「生存の可能性が相当にある」と判断しない限り、「守備隊の中にバロン西がいる」などと他部隊の者(バートレット)に話すことは考えにくいし、その必要性もない。
 そして、バートレットは硫黄島に西が来ていることを知り、呼びかけまでしておきながら、その後を確認しないというのも不思議である。終戦時にハワイ等の捕虜収容所なり政府の捕虜情報局に照会して、西が収容されたかどうかを訊くこともせず、あるいは日本占領時代にも何もせず、20年も経って来日してから初めて 「消息を探し求めた結果、ことの仔細を知る」のは不自然ではないか。

 また、『西とウラヌス』には例の「オリンピックの英雄、バロン・ニシ。君は立派に軍人としての責任を果たしたのだ。ここで君を失うのは惜しい。こちらに来なさい。われわれは君を手厚く取り扱う」という呼びかけが紹介されているが、この呼びかけとバートレットの関係に全く触れていない。バートレットが来日時に「自分が呼びかけた」と証言していればその 後に出された硫黄島戦記はバートレットによる呼びかけの場面を描きそうなものであるが、そのようなものはない。逆に、バートレット来日以前に日本で書かれた作品にも呼びかけの場面はある。するとバートレットは日本語で呼びかけたのか、英語で呼びかけたのか。この点が問題となってくる。バートレットが英語で呼びかけたのだとしたら、なぜ日本において彼の来日以前に「バロン西への投降勧告」の話が広まっていたのだろうか。日本語で呼びかけたとしたら、バートレットは事前に何の準備もせずに、日本語で呼びかけることが可能だったのだろうか。(繰り返すが、「バロン西」という呼びかけを聞いたという日本人生還者を作者は知らない。ま た、「日本軍への投降勧告は日本語で行われた」と生還者の証言は一致しており、「英語で何か呼びかけていた」とする証言はない)

 一方の『西とウラヌス』中のバートレットの記事には、特に不自然な点は見あたらない。硫黄島戦当時に「空軍将校」という肩書きはおかしいが、「退役時には陸軍航空隊から空軍に編成が変わっていたので、最終時の所属と混同した」ことはありうる。あるいは、単に合衆国陸軍航空隊(United States Army Air Forces)をアメリカ合衆国空軍(U.S.A.Air Forces)と誤読・誤訳したのかもしれない(米空軍が陸軍から独立するのは1947年9月である) 。
 以上のように考えると、パンフレットに書かれている話は疑問点が多い。バートレットは西の硫黄島在島を知らなかったとする『西とウラヌス』の方が納得で きる内容である。

 そして、揚げ足取りのような指摘ではあるが、パンフレットの書きぶりも不自然である。「逸話を発見した」とあるが、具体的には何に記述されていたのだろ うか。仮にバートレットの日記なり、上官への報告書なりに記述があることを発見したのであれば、呼びかけは実話だったと考えても良い(また、このような資料であれ ば 「呼びかけ」がいつ頃なされたかが推定できるはずである)。あるいは、同行していた米軍人の証言でも有力な証拠になりうる。しかし何を根拠にしたのかは全く明らかにされていないし、「記録」、「証言」というような表記さえしていない。 さらにいえば、日米両国のどちらで発見した「逸話」であるかさえ記していない。これでは単なる「伝聞」によって書いた、あるいは信頼性に欠ける文書を基に したので「逸話」と書かざるをえなかったといわれても反論できるだろうか。(プロダクション・ノーツの筆者名を出さないのも疑問、少なくとも信頼性は下がる。)

 それにたとえこの「逸話」が実話だったとしても、バートレットという「一個人による旧友への呼びかけ」をもって、「米軍将兵・米国民による英雄バロン西への称賛」の根拠とすることは明らかに論理の飛躍であり、拡大解釈である。例えば、栗林中将が知米派で、米陸軍に多くの親友を持っていたという事例を根拠に「当時の日本陸軍・日本国民は親米であった」などと書くことは不適切であることと同じである。

 蛇足になるが、第1章で記した内容に対し、事前に予想していなかった興味深い反応があった。作者 自身はさほど重要でない話と思ったので、付け加え程度のつもりで「(なお、米軍は西が硫黄島に派遣されていることすら事前には知らなかったとする 証言も存在する。)」と括弧書きで記した箇所に多くの反響があったことである。その大半は
 「米軍が西の在島を知らなかったということなら、投降勧告がなかったことも納得できる」
 「いや、米軍は西の在島を知っていたか、上陸直後に把握したはずであり、したがって投降勧告もあったはずである」
というものである。一見すると対立する意見ではあるが、「バロン西が硫黄島にいたことを知っていたなら、必ず特別な投降勧告があったはず」という前提で考 え ていることが両者 には共通している。だが、「たとえ著名人・人気者が相手でも、それを理由に特別扱いすることはない」という考えもあるのではないか。少なくとも作者は第1章において、米軍が西の在島を把握していたかどうかを根拠に投降勧告の有無を考察した訳ではない。

 それに繰り返すが国際法の考えからすれば「特定の人にのみ投降を呼びかける」という言動は適切ではない。しかも特別扱いの理由が「五輪選手や英雄」というのはその正当性に欠ける(衛生兵や非戦闘員という理由なら話は別である)。果たして「法の下の平等」という考えはどうなっているのか。「投降勧告」の真偽についての議論はあるが、「美談扱い」の是非について論じる人は少ない。しかし「西への投降勧告」は事実であると信じる方も、これが「美談」なのかどうか、あらためて考えてみても良いのではないか。
 それでも、「正しさと美しさとは別の問題であり、法的な問題や不公平という一面が あっても美談であることに変わりはない」という見方は成り立つかもしれない。あるいは、「この話を美談と考える感性こそ日本人の心であり、それを大切にすべきだ」という考え方もあろう。そういう考え方も理解はできるが、少なくとも作者は賛同できない。(注)

 ところで、「美談」とは「投降呼びかけ」だけではなく、西が「同胞と運命を共にした」ことを含めていると見なすことも出来る。「華族」「金メダリスト」 「国際的名士」 「億万長者」という、いわば雲の上の人が、敵国からの救済を拒否してでも、召集された庶民出身の兵士たちと「共に死ぬ」道を選んだことが、多くの日本人の共感と支持を得ているともいえる。たとえ特別な人であっても、最期は一般の日本人と死生観や運命を共有したことが、「日本人かくあるべし」として、西竹一は「理想の日本人」にされることになったのであろうか。この問題については第3章でも考察することにしたい。
(注)それ以前の問題として、「国際法に基づいた、捕虜や非戦闘員の扱い」についての知識が一般に普及していないこ とも指摘しておきたい。日本は1929年のジュネーブ条約には加入しなかったが1949年条約には加入(1953年)し ている。この条約には「条文の普及義務」があり、「加入国は軍人・民間人を問わず、戦時・平時の区別なくこの条約について普及させる義務がある」旨定めら れているが、我が国では大学の法学部でさえ、同条約について必修ではない(あるいは講座自体がない)ところが大半である。つまり、「条約の普及義務」を果 たしていないし、それへの努力さえ怠っているというのが我が国の現状である。同条約が日本人の戦争観と相容れない一面を持つことが普及の妨げになっていると作者は考えているが、加入した以上は不本意でも遵守するのが国際社会でのルールであろう(もちろん、「普及義務」を果たしていないのは我が国に限ったことではないが、だからといって無視して良いものではあるまい)。
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