「バロン西への投降勧告」考 第3章 〜 その物語の変遷について 〜
 米軍がバロン西だけを名指しして投降を呼びかけたという話は、果たしていつから広まり、かつ内容に変化はあったのだろうか。まずは硫黄島戦をあつかった主な作品、今回は小説も 含め、その内容を見てみることにする。
執筆・発表時期 作者 作品名 内容 備考
1946年(昭和21) 石井 周治
(生還者)
『硫黄島に生きる』 作者は元陸軍衛生兵、西竹一の記述なし。
1949年(昭和24) 堀江 芳孝 「硫黄島玉砕記」 「オリンピック馬術選手で男爵の西中佐」が幹部の一人であったとの記述のみ。投降勧告の記述なし。 雄鶏社「特選記録文学」収
1952年(昭和27) 森本 一善
(生還者)
『硫黄島玉砕に祈る』 作者は元陸軍軍医中尉、西竹一についての回想はあるが、名指しの投降勧告の記述なし(日本兵全体に対する投降勧告については記録)。西中佐は敵弾に倒れたとの伝聞を記述。 出版は昭和41年
1952年(昭和27) 澁江等・大木昌義・山室雅二
(生還者)
「硫黄島生残り勇士の座談会」 海軍陸戦隊生還者による座談会、米軍及び日本人捕虜による日本兵への投降勧告の話はあるが、西竹一の記述 なし。 栃木新聞社『硫黄島洞窟日誌』収
1952年(昭和27) 大曲 覚
(生還者)
「敗残の硫黄島」 筆者は海軍中尉だが、3月中旬に西部隊と合流し、西が死ぬ直前までの数日間、行動を共にした。投降勧告の記述なし。 蒼樹社『硫黄島決戦』収
1952年(昭和27) 西 武子 「遺族への使者」 西の部下(岸明中尉)が西家を訪れ、西の最期の様子(実は捕虜収容所で上記の大曲から聞いた話)を報告。投降勧告の記述なし。 同上
1959年(昭和34) 金井 啓
(生還者)
「硫黄島玉砕」 筆者は元海軍上曹、西竹一の記述なし。 「丸」34年6月号掲載、文春文庫『完本・太平洋戦争』収
1961年(昭和36) 伊藤 正徳 『帝国陸軍の最期 特攻編』 西中佐は斬り込みを繰り返した後に割腹したと記述。投降勧告の記述なし。 光人NF文庫
1963年(昭和38) 城山 三郎 『硫黄島に死す』 (引用)投降勧告もはじまった。「ニシさん、出て来い!」という呼びかけがあったことも知った。(新潮文庫版、P53) 「文藝春秋」38年11月号掲載
読者賞受賞作 新潮文庫
1965年(昭和40) 堀江 芳孝 『闘魂 硫黄島』 (引用)私は「バロン西よ、無駄な戦いを止めて投降しなさい」と敵軍が呼びかけたという話の真偽を知らない。(P245)
1965年(昭和40) ニューカム 『硫黄島』 (引用)西のかつての部下が、「西さん出て来い」と叫んでいるのが聞こえた。(文庫版P317) 日本語訳は昭和41年刊
1967年(昭和42) 防衛研修所 『中部太平洋陸軍作戦(2)』 戦車第二十六連隊の戦闘と西の自決についての記録のみ。投降勧告の記述なし。 戦史叢書13巻
1969年(昭和44) 吉橋 戎三 『西とウラヌス』 (引用)「オリンピッ クの英雄、バロン・ニシ。君は立派に軍人としての責任を果たしたのだ。ここで君を失うのは惜しい。こちらに来なさい。われわれは君を手厚く取り扱う」 一般には販売されず。
昭和40年代前半 山岡 荘八 『小説太平洋戦争』(7) 投降勧告の記述なし。 講談社 山岡荘八歴史文庫
1970年(昭和45) 児島 襄 『将軍突撃せり』 投降勧告の記述なし。西は自決ではなく、銃撃を受けて戦死とする海軍軍属生還者の証言を採用。
1970年(昭和45) 山崎 明
(生還者)
「戦車第二十六連隊から見る」 筆者は上記の岸中尉と同一人物。西中佐は自決と主張(後述)。投降勧告の記述なし。 『小笠原兵団の最後』収
1972年(昭和47) 堀江 芳孝 『死闘!硫黄島・沖縄』 (引用)この日本軍の指揮官がかの有名なオリンピックの雄、西竹一であると知った米軍は、彼を殺すにしのびず、しきりに拡声器を使って降伏をよびかけてきた。(P88)西中佐は米兵の投げ込んだ手榴弾で爆死とする。 学習研究社 EIN BOOKS
太平洋戦争ハイライトシリーズ
(読者アンケート用紙の文面から判断するに若年層向けか?)
1977年(昭和52) 寒河江鋭助
(生還者)
「私の硫黄島戦闘体験記」 筆者は戦車第二十六連隊所属の元軍曹、「西中佐 東海岸で戦死」とする(自決とは使い分けている)が詳細は触れず。投降勧告の記述無し。 「硫黄島協会会報 第8号」収
一般には販売されず。
1978年(昭和53) 小谷秀二郎 『硫黄島の死闘』 (引用)アメリカ軍から拡声器で西中佐への呼びかけがあったことは事実のようである。「オリンピックの英雄、バロン・ニシ。君は立派に軍人としての責任を果たしたのだ。ここで君を失うのは惜しい。こちらに来なさい。われわれは君を手厚く取り扱う」(P156〜157)

 上記の表の作成にあたっては、新聞・雑誌記事あるいは映画・テレビ作品までは調べきれていないし、必ずしも主要作品をすべて確認したわけではない。だが、こうしてみると、「投降勧告」の話が「戦後間もない頃から語り伝えられてきた」とされていることは疑問となる。どちらかといえば「バロン西への投降勧告」は昭和30年代後半から次第に書かれるようになり、40年代に定着した印象を受ける (昭和20年代、30年代前半の作品で「投降勧告」の話を読んだという方はぜひ御連絡下さい)。仮に戦後すぐからこの話が流布していたのであれば、 大曲や 西武子の手記でさえこの話に全く触れていないのが不思議である。(後に大曲は「バロン西への投降勧告は一切聞いたことがない」と証言している。)

 一方で、上の表では「投降勧告の記述なし」と書いた武子夫人の手記には、興味深い一文がある。
「・・・(終戦)翌年の十一月二十一日のことでした。主人の部隊におられた将校の方が一人生還され、わたくし共を訪れて、はじめて主人の最期の様子をくわしく話して下さいました。(中略)その日までは正確な命日も最期の様子も何一つわからないことばかりでした。そうしてその事情がわからないということが、いろいろと心なきデマを生んで、幾度かつらい思いをしたわたくし達の心は、唯一日も早く真実を知りたい気持ち で一杯でした。」(『硫黄島決戦』P252、明らかな誤字と旧字体は改めた。)
 「心なきデマ」というのが何であったのか、具体的なことはわからない。しかし終戦後のある時期には、西を非難・中傷する内容の噂話も流布していたのであろ う。作者の想像ではあるが、それは「バロン西は語学力と五輪選手としての知名度を利用し、自分だけは米軍に助けてもらおうとした」という内容だったのでは ないだろうか。そして西中佐の最期について遺族に伝えた岸(山崎)明は後に「西隊長の自殺も部下を多数失った責任感から亡くなられたと思う。」(『小 笠原兵団の最後』P87)と書いている。「重傷で動けなくなったから(当初は遺族にこう報告)」ではなく「部隊長としての責任感」による自決としているのは、そう いった噂に対する反論の意味を込めたのではないだろうか。さらに想像を発展させれば、「西への投降勧告」も噂に対抗するために創作されたのかもしれない。 「西中佐は自決したのだから自分だけ助かろうと考えていたのではない、事実は逆で、米軍の方が英雄バロン西を助けようとしたものの、それを敢然と拒否した のである」 という具合である。おそらく、岸中尉は後々までも、かつて流れていた噂をあらためて打ち消すために「米軍が投降を呼びかけた」と取材者に語ったのではないかと作者は想像している。その証言に拠って書かれたものの代表作が城山三郎「硫黄島に死す」である。

城山三郎「硫黄島に死す」について

 この表で見る限り、西を名指しした投降勧告を取り上げている作品は城山の「硫黄島に死す」(以下「城山作品」と略)が一番古い。そして城山作品執筆の際に参考とされた文献の一つは金井啓「硫黄島玉砕」(以下、「金井手記」)であると作者は考えている。なぜなら、金井手記の誤記(厚地陸軍大佐と井上海軍大佐との取り違え等)をそのまま継承しているからである。だが、金井手記には西竹一の記述はない。城山の生前、作家の大野芳は投降勧告について手紙で問い合わせ、「誰かに取材している」 との返事があったという。このとおりなら城山による創作ではなく、証言者はいたことになる。
 「誰かに」というのが思い出せないとのことであるが、もし武子夫人から直接聞いたのであれば、そのことを思い出せないと言うことはないであろう。したがって、取材した生還者の誰かから聞いた、という可能性が一番高いのではないか。そして取材した相手の一人が岸中尉であることは間違いない。なぜなら、城山作品中の「日本軍陣地を攻撃中に負傷した米兵が捕虜となった際、西は捕虜の治療を命じ、自ら尋問し、米兵の母からの手紙を見つける」という話は岸の証言によるものだからである(この現場にいた中で生還者は岸のみである)。
 このことはニューカムの「硫黄島」にも関わってくる。実は、岸の回想によれば、米兵を捕らえたのは「大谷道雄中尉」である。ところが城山作品では「大久保副官」となっている。実際には西中佐の副官は「松山少佐」であり、かつ「大久保」姓の士官は同隊にはいない。つまり、城山が物語をわかりやすくするため、少なくとも2名の人格を一人に合成して創作されたのが「大久保副官」である。そしてニューカムの作品においても、同じ場面で「大久保副官」が登場する。また、硫黄島玉砕が発表された時の西家の描写も城山作品に酷似していることから、ニューカム「硫黄島」中のバロン西に関する記述は、城山作品からその多くを引用している、もしくは城山が取材した証言者と同一の人物に取材した結果によるものと考えて良いだろう。そうすると「西さん出て来い」も米側記録からではなく、城山作品からの引用か、同一の証言者に拠ったものである可能性が高い。ニューカムが「西のかつての部下」と したのは米軍人が西へ呼 びかけたという記録が米側になく、また捕虜にした日本兵に仲間への投降勧告をさせたという記録から、呼びかけたのは西の部下であると推定した(あるいは証言者の岸自身が呼び掛けた本人であったとニューカムが誤解した)のではないだろうか。

  付け加えると、バロン西は「拳銃で自決」とするのも、おそらくは城山作品が最初である。『硫黄島決戦』では大曲・西武子とも「自決」とのみ記しており、それゆえに伊藤正徳は『帝国陸軍の最期』で割腹としたのであろうが、城山は岸あるいは西武子から「拳銃で自決」と聞いてそう書いたと思われる。ただし、戦死と主張する生還者も上記のように複数おり、自決説そのものにも疑問が残る。これもまた自決説を創作する、あるいは諸説ある中から自決説を強調することで、「西中佐は自分だけ助かろうとは考えていなかった。自ら命を絶ったことがその証拠である。」という説明がつくようにして「心なきデマ」に対抗したのかもしれない。
 
 城山作品は月刊誌「文藝春秋」に発表され、読者賞を受賞した。同誌の部数や読者層を考えると、バロン西の人物像を日本人に強く印象づけたことは想像に難くない。そして文庫化され現在も広く読まれている。そして多くの硫黄島戦記に「参考文献」として使われていることもあるので、さらに多くの日本人に実話としてこの話を広めていくことになったのであろう。
 そしてまた、ニューカムが城山作品を引用したことが、昭和40年代以降の硫黄島戦記に大きな影響を与えたと考えられる。つまり米国で出された書物に「西への投降勧告」が記されたことで「日米双方の書物に書かれているなら事実である」と多くの人々が判断することになったわけである。

「五輪の英雄」伝説へ

 城山作品において呼びかけは単に「ニシさん、出て来い」であり、単に「部隊長に対する投降勧告」とも読める。上の表から見ていくと、「オリンピックの英雄」 が投降勧告に付け加えられるのは昭和40年代以降のように思われる、これは昭和39年の東京オリンピックとの関係が考えられよう。今でもオリンピック開催年になると、「過去の五輪にまつわるエピソード」がしばしばマスコミに登場する。東京五輪の前後に、誰かが城山作品に脚色したのがはじまりではないだろうか。

 そして吉橋『西とウラヌス』において「西は五輪の優勝者ゆえに、特例として米軍が投降勧告をする」という物語がほぼ完成する。この作品自体は一般向けに販売された書物ではないが、この本を参考文献とした西の伝記や硫黄島戦記は多い。これらの派生作品により国民の間に物語が定着したと考えてよいだろう。

GHQ関与説の不合理性

 なお、「バロン西への投降勧告」の話が広まった背景には「日本人の対米感情を良くして占領行政を円滑に進めようとするGHQの意向があった」との見方 がある(大野芳『オリンポスの使徒』等)。さらにはGHQがそういった目的で創作した話であるという陰謀論めいた主張まであるが、上記の表で見る限り、占領期間中にすでに流布されていたと判断することには疑問が残る。それに「バロン西にだけ投降を勧告したのは不適切」などと指摘されたら逆に占領行政に支障が出よう。
 また、前章で検証したバートレットの話とも矛盾が生じる。バートレットは戦後20年目になり、ようやく西の最期について「はじめてことの仔細を知って、大いになげいたのである」というのであれば、当時の米軍内において、「バロン西の最期」が話題になることは少なかったとみるほうが自然で ある。(他の戦場も含め、捕虜収容所などで米兵から「バロン西」について尋ねられたという話を作者は知らない。)
 これらのことから考えて、GHQが積極的に噂を広めた、あるいは創作したという話はあり得ないと作者は考えている。(そもそも、外国人がこのような話を「美談」と考えるかどうかさえ疑問である。)


結論 史実と価値観の伝承

 作者の結論としては、「バロン西への投降勧告」とは、かつての部下を中心とした周囲の人々がバロン西に関するいわれなき中傷・非難に対抗するために考え出した物語ということである。そして、故人の名誉を守るための物語が一人歩きし、「スポーツや友情は国境や戦火を超える」「一流の技量を身につければ民族や敵味方を問われずに敬愛される」といった教訓話に姿を変えていくこと、さらに西竹一の「自決」が「同胞と運命を共にしてこそ日本人の鑑」、あるいは「世界が称賛した人物を自決に追い込んでしまう非情な戦争(もしくは 軍隊、戦陣訓)」というメッセージを込めた形で語られることは関係者が予想もしなかったことであろう。けれども、そのような教訓性やメッセージ性のある物語として扱われたからこそ、多くの人に受け容れられたのであろう。

 歴史は教訓として伝えられることが多く、教訓を求めて歴史書を手にする人も多い。そのため教訓性やメッセージ性を重視するあまり、事実の検証が軽視されることもある。あるいは、教訓性やメッセージ性をもった物語が頻繁に取り上げられる結果、史実として定着してしまう面もある。特に伝記などは史実の厳密な 追求よりも「人はこう生きるべき」という書き手の理想が優先される傾向が強い。これは歴史記述(あるいは人文科学全般)の、特に教育分野における宿命かもしれない。あるいは、歴史学の世界においては「○○史研究の今日的意義」といったものが時に問題となる。自らの研究が社会的にも意義のあることを確認したいというプロの研究者の気持ちは理解できるが、「今日的意義」といった特定の価値観によって史実の検証や公表に影響が出るようなことは起こりうる。
 「次代の人々に益するところがあればそれで良い」という考え方もあろう。あるいは、 虚構の物語であっても、そこに込められた教訓など(スポーツマンシップの尊重など)を自らの人生に活かしてきた人々に対して、それを否定するような事実を示すこと(この論考のように)は学問的に正しくても、人間の行いとしてどうか、との意見もあるかもしれない。(実際、「投降勧告は『後世の創作』と知って大変なショックを受けた」との読者の声もかなりあった。)仮に、「史実か全人教育か」を問われれば、多くの人は「教育」を優先させてしまうのではないだろうか。たとえ法的な問題点を提示しても、「法より道義に基づいた言動」への共感は教育者の間には根強いのではないだろうか。

 一方で、「バロン西への投降勧告」の物語自体は虚構であるが、この物語を少なからぬ日本人が実話だと信じてきた、あるいは後世に伝えたい話だと考えてき たということは一つの史実である。このことは、この物語が戦争・英雄・投降と捕虜・個人と共同体、といった事柄について、戦後から現代に至るまでの日本人がどのように考えていたかを知る手懸かりとなる史料となりうることを意味しているとも言える。つまり、「硫黄島戦史」に書く話ではないが、例えば「日本人の英雄観」というテーマの著作であれば取り上げるのに相応しい物語の一つである。そしてまた、そういった先人の価値観を受け継ぎ、後世へと伝えていくための手段として、人々は教訓やメッセージを込めた「歴史」物語を必要としているのかもしれない。例を挙げれば、「義経記」や「仮名手本忠臣蔵」は史実とは大幅に異なるが、むしろ物語中の事実と異なる箇所にこそ、当時の日本人の価値観が投影されており、それらが伝承されることで現代に至るまでの日本人の感性に一定の影響を与え、それを育んできたのと同様ではないか。そしてまた、全て史実ではないことを感じつつも、多くの人々が「義経伝説」や「忠臣蔵」を愛し、次世代の人々に伝えたい話と考えているのも、物語に含まれる価値観の伝承を思ってのことであろう。同様に「西への投降勧告と、それを拒んでの自決」という物語も、そこに含まれる価値観が日本人に受け容れられる限り、後世に伝える価値のある美談として、史実かどうかは問われずに伝承されていくのであろうか。 

 バロン西の物語は「歴史はいかに書かれるべきか」という問題を我に投げかけている、ともいえよう。
 
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