母島・乳房山の戦跡
母島の最高峰・乳房山(463m)。この山に連なる船木山との間にも戦跡は残されている。その主なものを紹介したい。

陸軍船木山陣地
 
母島の港湾施設(沖港)については海軍が防衛の主力であったが、開戦直前の昭和16年9月、父島要塞から第42要塞歩兵隊が派遣された。そして昭和19年3月、さらに第45要塞歩兵隊が増派され、混成第1連隊(連隊長:政木均大佐 2,146名)が編成された。母島守備の主力となった同部隊は主陣地を沖港東側の評議平地区に置き、第1大隊(旧:第42隊)を沖村に、第2大隊旧:第45隊)を北村に配備した。さらに予備陣地として船木山から乳房山にかけて、塹壕や銃座を配備した。これは栗林兵団長による「水際から後退配備への転換」の意を受けての予備陣地構築であったが、着手が遅かったため、未完成のまま終戦を迎えた。

高射機関砲1 高射機関砲2
塹壕の中に残る高射機関砲。銃身は失われている。 露出してしているので、風化が著しい。
山腹に数多く残る棲息壕(防空壕) ほとんどは高さ1m前後、奥行き数mほどである。
爆弾坑。米軍が投下した1000ポンド爆弾によるものといわれている。 上から撮影。爆弾坑は深さ4.5m、幅は平均9m、最大で19mに及ぶ。
 母島と日本陸軍との関わりで重要なことは、ここが開戦時の出撃地でもあったということである。昭和16年11月末、歩兵第144連隊を基幹とするグアム島攻略部隊(南海支隊)が8隻の輸送船に乗り母島沖港に入港、12月1日には沖村海岸で上陸演習を行っている。12月4日に出航した部隊は開戦と同時にグアムを攻撃して占領。さらにラバウルや東部ニューギニアに転戦した。
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