母島の戦跡を巡る
 昭和16年から、母島にも砲台などの軍事施設が築かれるようになり、昭和19年に入ると配備される部隊も急増していった。

 終戦後、米軍の占領下に入った母島であるが、部隊は配備されず、また、小笠原への帰郷を許可された欧米系島民も父島に住んだため、旧軍の遺構 は手つかずのままジャングルに埋もれていった。それらの幾つかを紹介したい。
(取材・撮影はいずれも平成15年9月)

南崎海面砲台(小富士砲台)

 南崎は母島を代表する景勝地の一つであり、先端には小富士と呼ばれる小山がある。この中腹に洞窟陣地が造られており、中には安式15糎砲2門 が残っている。安式とはアームストロング式の略称であり、日本の戦艦がイギリスで建造されていた日露戦争頃の大砲(当時は6インチ砲と呼ばれた)である。 「三笠」などの戦艦の副砲として使われていたものを取り外して転用していたのである。この南崎砲台は昭和20年1月に着工され、5月下旬に完成した。

母島・南崎 ←南崎・小富士の頂より
 遠方に見える向島にも部隊が配置されていた。
トーチカと砲口→

見廻山防空砲台

 評議平の見廻山には海軍の十年式12糎高角砲が3門残されている。昭和19年9月以降、6門が配備される予定であったが、実際に据え付けられ た数は不明である。3門のうち2門は農地整備のため移設されている。

12糎高角砲。当時のまま残る1門
正面から撮影
移設された2門の高角砲
畑に入れないので望遠で撮影

陸軍船木山陣地

奥の高い山が乳房山。手前(南側)に位置するのが船木山 山腹に残る塹壕の跡。
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その他

小剣崎山頂の機銃台(?)残骸。付近では探照灯やレーダーの残骸
も発見されている。
沖港入口付近の砲台(2つの長方形の穴)跡?。沖港の周囲では砲台や営舎が整備されただけでなく、潜水艦の推進音を探知するため の装置が海中に設けられていた。
御幸之浜に残っていたトーチカの跡。開口部が小さいので砲台ではなく機関銃座であろうか。
内部をのぞいたが何も残っていなかった。

米軍機の残骸(アンナビーチ母島ユースホステル:田澤誠治氏所蔵)

 戦跡ではないが、母島の静沢で見つかった米軍機の残骸である。マリアナ諸島から空襲に来て撃墜されたB−24型爆撃機の一部であろう。

米軍機の残骸。蝶番らしきものが残っていたので、扉あるいはハッチの一部か?
裏返したところ。かすかに「B24−D」の刻印が読みとれる。

 母島は地上戦こそ行われなかったものの、頻繁な空襲による死傷者、そして食糧難による栄養失調のため戦病死する将兵が少なくなかった。母島だ けでなく、向島や平島のような属島にまで部隊を配置したため食料の補給も自給も困難を極め、戦没者の大半は「餓死」であった。多くの母島生還者に対して聞 き取り調査を行った大関栄作氏によれば、体重が平均して30%以上減少していたという。仮に体重60kgの人であれば42kg以下になるということであ り、いかに深刻な状況であったか想像されたい。
 昭和20年3月2日の海軍母島警備隊からの報告によれば、「糧食現在量 主食四ヶ月半 副食二箇月」となっている。

 なお、小笠原諸島の戦跡は多くが森の中や海岸にあるため、訪れる際には貴重な自然を傷つけないよう充分に注意する必要があります。また、一部 の遺構は私有地内に所在するので、むやみな立ち入りも禁物です。観光協会に相談するなどして、東京都認定のエコロジーガイドの案内・指導のもとに探索して 下さい。(父島では「戦跡ツアー」も開催されていますので、それに参加するのが無難です。)
 最後になりますが、作者の母島滞在時にはエコガイドの田澤誠治氏に大変お世話になりました。この場を借りて御礼申し上げます。

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