硫黄島戦における朝鮮人軍属について
 

朝鮮人軍属は1600名以上なのか?

 防衛庁(当時)編纂の戦史叢書「中部太平洋陸軍作戦<2>」の「硫黄島の戦闘」の章に、以下のような記述がある。

「また海軍第二〇四設営隊、兵装隊、航空兵器修理隊等の軍属(主力は工員で、 朝鮮人約一,六〇〇名を含む)も、第一線において挺身斬り込み及び陣地戦等に参加し、戦闘することとなった。」(391頁)
 おそらくはこれを根拠として、いくつかの戦史で硫黄島の朝鮮人軍属を1600名とする記述がなされているのであろう。例えば、「硫黄島には一千六百名以 上の朝鮮人が労務者として強制連行されていた。」(森山康平『硫黄島の決戦』学研M文庫、236頁)などである。(「約 1600名」ではなく「1600名以上」としている理由は不明。あるいは別資料からの引用か。)

 ところが、この件については硫黄島警備隊員だった方から、「実感として、そんな多くの人数だったとは思えない。」との話を聞いた。確かに、約 7700名の海軍将兵のうち朝鮮人軍属が1600名だとすれば、約20%を占めることになり、陸海守備隊員の合計と比較しても7%以上という大きな数字に なる。作者も疑問に思って資料を再検討することにした。

 まずは戦史叢書の記述であるが、数字の出所を示す脚注がないので、防衛研究所図書館所蔵の資料を幾つかあたってみると、次のような文書 (「硫黄島方面電報綴」 3月3日付機密第010936番電)が出てきた。

「工員ハ指導ヨロシキヲ得レバ陸海軍人ニイササカモ劣ラズ、ソノ戦力大ナリ。工員ハ設営隊、兵装隊、修理隊合計千六百 名、十九年十月以降当地区陸戦隊ニ編入、本務ノ傍ラ、常時陸戦訓練、壕、陣地設営ヲ実施シタルトコロ、今次戦闘ニオイテ率先斬リ込ミニ参 加、陸上ニオイテヨク積極果敢、崇高ナル犠牲的精神ヲ発揮セリ。元山地区陸戦隊二隊ノ大多数ハ半島人ニテ編成シアリタルモ、最モ勇 猛果敢昼夜ナキ白兵ヲモツテ敵ヲ撃退。指揮官ノモト同地ヲ死守スル統制アル戦闘ヲ実施シツツアリ(以下、略)」
(句読点を入れ、旧漢字は新字体に改めた。下線は作者による。なお、引用につき文中に「差別用語」が含まれてい ることを御理解願います。)
 この電文の下線部分が戦史叢書の記述の元になったと思われるが、この資料は、「工員の総数が1600名」で、うち「元山地区陸戦隊二隊の大多数が朝鮮 人」と読むのが自然であろう。全ての地区や隊で朝鮮人が大半であるならばこのように書く必要はないからである。そうなると「朝鮮人約1600名」説は戦史 叢書の編集者が原資料を誤読した結果である可能性が高い。そう考えて確認のために他の資料を検討することにした。

朝鮮人元軍属の回想から考察

 硫黄島から生還した朝鮮人元軍属の体験談を収録した文献として、作者が読んだものは、前川恵司著『韓国・朝鮮人−在日を生きる』(創樹社  1981年)である。この本には在日朝鮮人、朴賛煕(パク=チャンヒ。以下、文献に倣い「チャンヒ」と記述)氏の回想が収められている。(ただし、チャン ヒの回想なのか、著者の見方なのかが不明な箇所が多いことがこの文献の問題点ではある。)
 チャンヒの回想のうち、徴用されてから硫黄島戦に至るまでの概要は以下のとおりである。

  •  昭和17年夏、居住していた川崎市から徴用令状を受け取り、茨城県の鹿嶋飛行場の建設作業に従事。
  •  約1年後、朝鮮人軍属200名と共に硫黄島に移される。すでに在島していた300人(海軍の下請け業者の作業員)と合流。作業員の3分 の2以上が朝鮮人 であった。
  •  元山飛行場及び近くの陣地造りに従事。作業の合間には戦闘の訓練も。軍属は30人で1班を編成。班長のみ日本人。
  •  19年夏になり、空襲が激化すると、作業中に戦死する班員も増えた。一方、作業隊も増員された。
  •  硫黄島戦が始まり、事前及び上陸当日の砲撃のため、チャンヒの部隊では30人が戦死した。
  •  米軍上陸から2週間ほどで、チャンヒの部隊で生存者は30名ほど、自力で動けるのは10名ほどであった。
  •  自分のいる壕が火炎放射器で攻撃され、必死に這い出したところを米兵に捕らえられた。
  •  米軍に命じられ、抵抗を続ける日本兵への投降呼びかけを行う。チャンヒの呼びかけで3,4名が出てきたと記憶。
  •  硫黄島の捕虜収容所で、徴用されてからの友人であった朝鮮人(別の隊に所属していた)と再会。
  •  グアム、ハワイの収容所を経て、上記の友人と共に昭和21年12月に横須賀に帰還。以後も川崎に在住。
  •  内容を検討してみると、硫黄島に派遣されたのが昭和18年夏なので、二〇四設営隊ではなく、横須賀鎮守府施設部派遣隊(以下、「施設部派遣隊」と略す) の一員としての派遣だとわかる。「3分の2以上」については、その基数が建設会社の300人だと考えればチャンヒ達200名と合わせて400人余 り、合流 後の500人とするなら330人余り、施設部派遣隊全員(18年時点で約800人)のことだと考えれば540〜600名が朝 鮮人だったということになる。 問題はその後の増員分である。施設部派遣隊は業務を請け負った民間会社の作業員が主体のため、朝鮮人の割合が多かったのであるが、二〇四設営隊は正規の海 軍部隊である。編成内容から考えても朝鮮人が大部分になることは考えられない。
     配属先が元山飛行場付近であり、「30人中、班長のみ日本人」という回想は、「元山地区陸戦隊の2隊は大多数を朝鮮人で編成した」とする先述の電文を裏 付けるものといえる。全部で何班あったかは回想にないが、「上陸前後に30人戦死、2週間後に30人生存」との証言から少なくとも2班はあったと考えられ る。
     
    設営隊戦死者の内訳から考察

     硫黄島協会が昭和44年に作成した「硫黄島海軍部隊戦没者名簿」には7267名の戦没者名と出身地、階級が記載されている(厚生労働省の統計 では海軍の戦没者は7406名)。この名簿から朝鮮出身軍属の戦死者を数えると設営隊(施設部派遣隊を含む)は112名、海軍警備隊、第二航空廠、南方諸 島航空隊に各1名、合計115名である(階級は工長2名、職手1名、工員112名)。朝鮮人の戦没者については資料不足による記載漏れの可能性も考えられ るが、視点を変えて残りの人数を数えれば、設営隊の約920名、航空廠の約180名、修理隊の約90名は日本人だったことになる。この日本人の戦死者数に ついては相当の信頼を置いて良いと思われる。
     先述した「設営隊は10月15日の段階で1216名」を基数にして日本人戦没者920名を除外すれば残り(日本人生還者及び朝鮮人軍属)は300 人弱と なる。あるいは軍属1600名のうち、主な3部隊の日本人戦没者は計約1170名であり、これに魚雷調整班の92名も日本人であるから合計は約1260 名、残りは約340名ということになる。あるいは「1600人は軍属だけで、他に軍人の数を加える必要がある」としても、一方で生還者の総 数から日本人生 還者数を差し引く必要があるので、「340名」を大幅に上回る可能性は小さい。そして戦死した115名との差は捕虜となった人数とも考えられる。
     ただし、上記の「1216名」には施設部派遣隊が含れていない可能性もある。設営隊到着後も施設部派遣隊全員がそのまま残されていたとすれば、先述の朝 鮮人330〜600名を加える必要が生じる。だが施設部派遣隊800名全員が残されたとすると軍属の総数は2000名を大幅に上回ることになり、「設営 隊、兵装隊、修理隊合計千六百名」との矛盾が生じる。関係者の回想からも、設営隊の到着前後に施設部派遣隊の一部が他の地域に転出したことは確実と思われ るが、その人数は不明である。硫黄島への派遣途中(7月13日)に戦死した設営隊員250名の補充に施設部派遣隊の軍属が充てられたとみることは不自然で はないことから、島に残ったのは250名(この人数を加えると1216名にも近い)余りであろうとの推定にとどめておく。
     これ以外のものとしては、武市銀治郎『硫黄島』(大村書店 2001年)に「日本人の戦死率が約九六パーセントであったのに比し、朝鮮人のそれは約四五 パーセントであった。」(163頁)との記述がある。数字の出所は示されていないので信頼度に不安はあるが、この数字を上記の戦死者115名に当てはめる と、約140名の生還者がいたことになる。この数字は海兵隊の戦史にある「戦闘の大局が終わった時、216名の捕虜がいたが、主体は朝鮮人であった。」と の記述にも符合する。合計すれば255名となるが、戦死者名簿に記載漏れ、誤りがある可能性も考慮し、250〜300名ほどと推定す るのが 適当なところで はないか。

    朝鮮人が主力の部隊について

     チャンヒらが所属し、大多数が朝鮮人であったという「元山地区陸戦隊」の人数についても検討することにする。
     戦後地下壕から発見された編成表によれば、陸戦隊編成での設営隊員は第1中隊、第2中隊がそれぞれ350名となっている。第3中隊、第4中隊については 不明であるが、指揮官の階級からみても同程度、多くても400名程度と仮定するのが無理のないところであろう。元山地区の陸戦隊は玉名地区隊の指揮下と見 られるので、人数はこれより少ないと考えるべきである。したがって、元山の工員部隊は50〜200名程度ではないかと思われる。そしてこの部隊のうち二隊 (全部で二隊の可能性もある)は「朝鮮人が大多数」であった、ということになる。
     上述のチャンヒの証言にある「班」と「隊」が同一なら、30人の班が2班となるから、60名程度となる。あるいはこの60名がチャンヒのいた「部隊」と も読めるので、2隊なら約120名とも考えられる。(もちろん、朝鮮人軍属は他の地区にもいたので、この数字が在島朝鮮人総数にはならない。)

    陸軍所属の朝鮮人

     陸軍については、『硫黄島洞窟日誌 摺鉢山山頂に哭く』(栃木新聞社)付録の「硫黄島戦没者 名簿」で確認したところ、独立臼砲第二〇大隊に朝鮮出身者17名が含まれていた。この部隊は昭和19年4月に朝鮮鳥山府にて編成、7月1日釜山出港、14 日に硫黄島着となっているので、朝鮮半島出身者が含まれるのもうなずける。もっとも、戦没者(同隊は450名中425名が戦死)の出身地を見ると、山口、 長崎、福岡などが上位を占め、日本の他の地方も多く含まれているので、朝鮮人が主力の部隊ではない。また、この名簿は階級については掲載していないので、 戦死した朝鮮人が軍属だったのか、軍人だったのかは不明である。
     なお、この名簿は復員局の資料に基づいた作成となっているが、名前や出身地などの間違いが散見されており、部隊によっては戦死者の数が厚生省の発表と合 わないこともあるため、必ずしも信頼できるものではないことをお断りしておく。また、創氏改名により日本名を名乗り(軍属でなく軍人ならこの可能性は高 い)、徴兵・徴用されたときの住所が「出身地」とされていたら判別は困難なため、これ以外に朝鮮出身者は含まれている可能性は充分にある。

     陸軍における朝鮮人軍人・軍属の総数について、作者はこれ以上の資料を見ていない。だが、

     以上のような背景から考えて、陸軍が海軍設営隊のような軍属部隊を別に必要としたことは考えにくい。実際、硫黄島の島民で軍属として徴用された103名 のうち、80名が海軍設営隊への徴用であったことと、陸軍に徴用された島民軍属の役割は陣地造りよりも部隊が自活するための農業指導であったことは、この 裏付けになると思われる。
     もちろん、独立臼砲第二〇大隊以外にも朝鮮人がいた可能性はある。特に日本名での従軍者については今後の調査が必要となろう。それでも、人数は海軍ほど 多くはなかったと作者は推測している。
    (なお、この論中では陸海軍ともに、名簿で日本人名でも朝鮮出身となっていれば朝鮮人として数えている)

    現段階での推定

     このように資料の解釈により朝鮮人軍属の数は変動するため、人数を絞り込むのは困難である。上記前川書には「一千人を超える、と推定されてい る」との記述がある(128頁)が、同書に数字の出典・根拠は示されていない。前川書が書かれた当時、防衛研究所の資料はほとんど一般公開されていなかっ たため、1,600人いた軍属の2/3が朝鮮人であると推計して「一千人以上」としたのではないかと作者は想像する。もっとも、作者が推計した「設 営隊のうち 300〜340名」と「施設部派遣隊の うち330〜600名」に重複がないと仮定して、さらにそれぞれの最大値と陸軍の戦死者を合計すれば1000名に近い人数となる。この数字を上限として「米軍上陸までに 300〜1000名動員」かつ「600名を上回る可能性は低い」重 複ありと見るのが自然)とするのが現段階での作者の推定である。さらに上記「設営隊戦死者の内訳から考察」の部分で検証した人数を採用するならば、「約300名」(250〜350)に落ち着くのではないか。

     より正確な人数を計上するためには、硫黄島への派遣途中に戦死した設営隊員や米軍上陸以前の戦死・戦病死者についてさらに検証をしなければな らないが、現在のところ確かな資料を見いだせない。ただ、戦史叢書に記述されている「朝鮮人約1600名」は誤りであるということだけは間違いないと考 えられる。これ以上の史実については今後も調査して行く予定である。
     (良い資料を御存知の方は作者に御教示下さい。
     

    台湾人軍属の存在について

     1945年6月、ハワイのパールシティー収容所へ送られた捕虜28人の中に、硫黄島で捕虜になった台湾出身の海軍軍属が1名含まれていたこと が確認されている。ここの収容者たちは降伏勧告ビラなどの作成に従事し「米軍の投降勧告ビラ」記事参照)、戦後帰国しているが、この台湾人が帰郷し た後の消息は不明である。
     他に台湾出身者がいたのかどうか、上記の「硫黄島海軍部隊戦没者名簿」・「硫黄島戦没者名簿」で探したが、この中には含まれていなかった。名簿から漏れ ている可能性もあり、もちろん生還者なら記載されないので、他にも台湾出身者が守備隊に所属していた可能性は充分にあるが、人数は朝鮮人に比べて少数だっ たと推定できる。
     前述の台湾人軍属の所属も不明である。海軍の養成所を経て兵装隊か航空兵器修理隊に配属されていた軍属である可能性を考えて調査中である。

    (初出:16年8月1日、19年11月3日追加・修正)

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