潜水艦隊の苦闘

 海軍第1潜水部隊は硫黄島を包囲する米艦隊を攻撃するため、人間魚雷「回天」を搭載した潜水艦隊を派遣することにした。伊44 (回天4基搭載)・伊368(同5基)・伊370(同5基)の3隻をもって「回天特別攻撃隊千早隊」が編成され、2月25日、硫黄島近海に到着、作戦行動 を開始した。しかし26日に伊370が米駆逐艦フインネガンに、翌27日には伊368が空母アンチオ搭載機によって撃沈され、千早隊は「回天」を発進させ ることなく崩壊した。
 また、この海域で行動中の呂43は21日に駆逐艦レンショーを雷撃して大破させたが、27日に伊368と共に撃沈された。

 つづいて伊36と伊58(共に回天4基搭載)により「神武隊」が編成され、3月1日に呉を出航、伊44と合流して攻撃を行うこととされていた が、3月6日、沖縄戦に備えるために当作戦行動は中止となった。

 伊44は米海軍に発見されて攻撃を受けたため回天での攻撃可能距離まで近づけず、46時間にわたる追跡から脱出して帰還した。同艦は長時間の 戦闘と潜水により艦内の酸素が不足するなど危険な状況に陥り、乗員の必死の努力で生還したが、第6艦隊(潜水艦隊)司令部は現場の状況を考慮せず、ただ 「回天を発進させずに引き返した」ことは命令違反・戦意不足だと判定して艦長を更迭した。その後、伊44は回天特攻隊「多々良隊」の一艦として4月に沖縄 へ出撃、米駆逐艦隊と交戦して撃沈された。方針通りの強行突入にも関わらず戦果はなく、全乗員が戦死した。

 伊58も「多々良隊」の一艦として沖縄戦に参加したが、作戦中止命令により帰投し、その後はマリアナ近海での作戦行動に従事した。そして7月 30日、米本土からテニアン島に原子爆弾を運搬する任務を終えた直後の米重巡洋艦インディアナポリス(硫黄島戦時にはスプルーアンス大将の旗艦)に魚雷3 発を命中させてこれを撃沈し、終戦まで生き延びた。
(同潜水艦については橋本以行艦長の回想録「伊58潜帰投せり」(学研M文庫)を参照されたい。)

戻 る


主力部隊の壊滅

 3月7日の米第3海兵師団の進出によって、硫黄島の中心部を守る混成第2旅団と南方諸島海軍航空隊・海軍硫黄島警備隊の情勢は 急激に悪化し、米軍は両部隊の司令部付近にまで進出してきた。7日は米軍を撃退したものの、守備隊の被害と弾薬の消耗も大きく、これ以上の防戦は困難とも 思われた。千田旅団長と井上航空隊司令兼警備隊司令は遂に最後の突撃戦を決心した。しかしこれを聞いた栗林兵団長は玉砕突撃の中止を命令、これは千田少将 には届いたが井上大佐には届かなかった。そのため突撃戦は海軍警備隊と南方諸島航空隊を中心に行われることになった。

 翌8日、米軍の進出をくい止めていた日本兵は深夜に反攻を開始した。井上大佐以下約1千名が前進を開始したが、米軍は陸海から大量の照明弾を 打ち上げ、猛烈な銃砲火で応戦してきた。
 硫黄島の海軍部隊は陸軍に比べ陸戦に慣れていないこともあり、1時間あまりでほぼ壊滅した。天山から東山にかけての一帯において井上大佐以下800名近 くが戦死し、かろうじて生き残った将兵の多くは東地区の西戦車連隊などに合流した。

 9日、一時は攻撃を中止した千田旅団長も再び突撃戦を試みた。日没後、旅団の砲兵隊が最後の砲撃を行い、歩兵部隊が前進を開始した。23時過 ぎ、ようやく日本兵の一部が第4海兵師団陣地に突入、白兵戦が開始された。しかし多くの日本兵は米軍の陣地にたどり着くまでに銃砲撃を受けて倒れていっ た。
 翌朝まで元山飛行場周辺で激戦が展開され、日本軍の集中攻撃を受けた海兵第23連隊第2大隊は一時退却を余儀なくされた。しかし日本軍もここで力尽き、 第1線の旅団歩兵部隊は大損害を受けた。攻撃中止を決めた旅団司令部も米軍に包囲され、間一髪のところで迫撃砲隊により救出された。

 2日にわたる攻撃を受けた第4海兵師団の損害は戦死90名、重傷257名に過ぎなかったが、弾薬の消耗と将兵の疲労は大きく、戦闘能力は低下 した。

 海軍主力部隊と混成第2旅団の玉砕突撃により硫黄島中央部の戦闘は事実上終了し、抵抗拠点は西連隊の東地区と兵団司令部のある北地区だけと なった。

戻 る


千田旅団の最期

 9日夜の突撃戦により大損害を受けた混成第2旅団は散り散りになり、千田少将の周りには中迫撃砲第三大隊を中心とする500名 ほどが残るのみとなった。10日から12日にかけて、米軍は同隊と激しい接近戦を繰り返したため、迫撃砲隊も砲弾をほぼ撃ち尽くし、残る砲もわずかであっ た。13日、千田旅団長は兵団司令部と合流することを決心し、動ける将兵約470名を率いて北進を開始した。この時重傷で動けなくなっていた安荘少佐らは 自決を遂げた。
 一団は昼は東海岸近くの地下壕に潜み、夜になると海岸近くを前進した。途中、千田少将は全滅を防ぐため、部隊を3つに分散させたりもした。しかし、東地 区もすでに大半が米軍の支配下にあり、発見されるのは時間の問題であった。

 16日未明、中迫撃砲第三大隊第三中隊の将校が米軍が各所に張り巡らせたワイヤーに脚を引っかけた。仕掛けられていた信号弾が打ち上がり、そ れに気付いた海兵隊の一斉射撃を受けてこの中隊は全滅した。千田旅団長以下残りの将兵は近くの地下壕に潜り込み、かろうじて難を逃れた。

 だがこれにより千田旅団の動きを捕捉した米軍は一気に旅団を追いつめ、翌17日、周辺一帯に激烈な砲撃を開始した。地を揺るがすほどの砲撃に より地下壕の入口は次々と崩れ落ち、中に閉じこめられた日本兵が生き埋めになっていった。もはや反撃も脱出も不可能と観念した千田旅団長は拳銃で自決、旅 団参謀長堀大佐以下の司令部要員もこれに続いた。

 このとき旅団将兵が玉砕した温泉浜の地下陣地は栗林兵団長の司令部壕から200mほどの距離であった。だが、激しい砲撃の中から脱出し、この 距離を突破して兵団司令部にたどり着いた将兵はわずかに2名であった。
 彼ら2名の報告により千田旅団の全滅を知った栗林兵団長は硫黄島守備隊の玉砕が近いことを覚悟し、その後まもなくして大本営に向けて決別の打電を行っ た。

 38年後の昭和58年(1983)4月、温泉浜周辺の遺骨捜索が行われ、新たに発見された地下壕から千田少将以下多数の将兵の遺骨が収容され た。そして旅団の命令書もいくつか発見された。この文書などから、それまで伝えられてきた「旅団は海軍部隊と共に8日の突撃で玉砕した」とする説は誤りで あると判明した。

戻 る


西戦車連隊の玉砕

 西戦車連隊の戦車(97式中戦車11両、95式軽戦車12両)は3月の第1週までに全て破壊されていた。そこで決死隊が敵の戦 車を爆雷で破壊してはその搭載砲を奪い、それでさらに敵戦車を撃破するなどして抗戦を続け、東地区を守り続けていた。そのころ合流してきた海軍の兵装隊も 故障のために米軍が遺棄したバズーカ砲を修理して米戦車に立ち向かった。しかし3月8日には完全に島北部の兵団司令部と分断されて孤立した。そして12日 に西連隊の本部壕を探り当てた米軍は13日より集中攻撃を開始した。

 14日、西中佐は兵団本部との合流のため万(よろず)部落の連隊本部を出発した。約300名がこれに従ったが、まだ本部の地下壕には百名以上 の傷病兵が残されていた。この直後、海兵第3師団第9連隊が本部地下壕を火炎放射器で攻撃、残っていた将兵は全員戦死した。西中佐以下の将兵も途中で敵と 交戦、北部への脱出は失敗に終わったため、破壊され、焼死体で埋め尽くされた本部壕へ戻ることになった。

 15日、西連隊の部隊長の中には指揮を解き、各自の遊撃戦を命じる者も現れはじめたが、西中佐は夕刻、部下を率いて島北東部の銀明水へ向かっ て出撃した。しかし翌日、再び米軍による東地区一帯の掃討戦が行われ、部隊は応戦しつつも散り散りになった。16日夕刻、西中佐は銀明水近くの海岸にたど り着いたが、周りに残っていたのはもはや30名ほどであった。

 翌17日昼、海兵第3師団は東地区の完全占領を総司令部へと報告した。

 西中佐の最期は明らかでない。「銀明水近くの海岸で機銃掃射を受け、連隊本部の将校約10名と共に戦死した。遺体はその海岸の砂の中に埋葬さ れた」との証言が最も確かなものと思われるが、その日時については16日の暮れとも21日か22日ともいわれて確定せず、遺体も未発見のままである。戦車 第二十六連隊672名のうち、生還者は20名であった。

 なお、米軍が「ロス五輪の英雄バロン西」を戦死させまいと特別に投降を呼びかける話がしばしば戦記などで紹介されるが、このような特別扱いは 無かったと作者は考えている。(詳しくは「バロン西への投降勧告」考へ)

戻 る

栗林兵団長・市丸司令官の最期

 17日に決別の打電を行った栗林中将は市丸少将以下の海軍部隊と合流、最後の反撃の機会をうかがっていた。19日には損害の大 きかった海兵第4師団が撤収し、20日を過ぎると沖で艦砲射撃や照明弾の打ち上げを続けていた米艦船も沖縄戦に参加するため次第に減っていった。25日 夜、栗林中将は最後の突撃を指示した。26日午前2時、陣地を出発した兵団長以下300名は海兵第5師団の包囲線をすり抜け、西部落、元山飛行場を目指し て海岸沿いに進んだ(海軍主力は陸軍とは別に出撃したとの説もある)。将兵の中には、それまでの斬り込みで米軍から奪い取った自動小銃やバズーカ砲で武装 している者までいたという。

 午前5時15分、最後の機関銃が火を噴き、それを合図に一団は三方向から西部落南方の米陸軍航空隊宿営地などへ奇襲攻撃を開始した。ここの米 部隊は航空機の整備を主任務としていたので戦闘訓練を充分に受けておらず、また日本軍はすでに反撃能力を失ったと判断していたため、不意をつかれて米陣地 は大混乱に陥った。戦闘は3時間に及び、次々と米軍のテントが焼き討ちされ、通信線も切断された。そして日本兵の一部はさらに千鳥・元山飛行場へと突入し たが、夜明けと共に各方面から駆けつけてきた海兵隊員に包囲され遂に玉砕した。

 2将軍の最期については以下のように伝えられている。
 栗林中将は攻撃前進中、西部落東方の大阪山付近で右大腿部に重傷を負い、曹長に背負われるようにして指揮を続けたが、出血多量で動けなくなり、拳銃で自 決した。負傷のためすでに引金を引く力もなく、参謀の一人が拳銃に手を添えて頭部を撃ち抜いたとも伝えられる。兵団参謀らは中将の遺体を埋めて隠すと相次 いで自決していった。
 市丸少将は東海岸方面へ進み、米軍のトラック部隊を襲撃、手榴弾などで次々と破壊炎上させたが、追跡してきた米軍の機銃掃射を浴び、銃弾を全身に受けて 戦死した。

 この戦闘で米軍は少なくとも53名が戦死、119名が重傷を負った(他に黒人兵・軍属中心の第8海兵補給隊にも損害が出ていると思われるが、 詳細は不明である)。243名の日本軍将兵の遺体が確認され、内40名が軍刀を持っていたことから、米軍はこれで日本軍司令部の最後の反撃が行われたと判 断し、26日昼、硫黄島の完全占領を宣言した。
 しかし、米軍の懸命な捜索にもかかわらず、栗林兵団長の遺体は遂に発見されなかった。発見された軍刀の中に「長曽根虎徹」の銘刀があり、栗林将軍のもの ではないかとの証言もあるが、日本刀の真贋、そして所有者は不明なままである。

戻 る


生きる者、逝く者

 3月26日、日本軍の組織的な戦闘が終了した段階で、米軍に収容されていた捕虜は216名に過ぎなかった。しかもこのうちの多くは軍属として 徴用されていた工員などの非戦闘員で、朝鮮人の方が日本人より多かったとされている。

 多くの日本軍将兵が降伏したのは4月以降である。地下壕の中で負傷や病気、栄養失調のために意識を失っていたり、動くことも出来なくなってい た将兵が米軍に発見されては収容されていった。そして先に捕虜になった者が降伏を呼びかけることにより、次第に投降する将兵も増えていった。こうして4月 から終戦までに800人以上が米軍の捕虜となった。
 将兵の間には「4月3日(神武節)あるいは4月29日(天長節)を期して連合艦隊の来援がある」との見方が根強くあり、それが期待外れに終わったことか ら抗戦をあきらめ、次々と投降あるいは自決を選んだという話も伝えられている。

 日本軍には珍しく、部隊単位で整然と投降した事例もあった。
 一つは混成第二旅団野戦病院(長:野口巌軍医大尉)である。4月10日頃、米軍の投降勧告があり、その受諾について隊内では論争が続いたが、最終的に降 伏と決定した。病院の69名と入院患者十数名が米軍に保護されたのは4月16日であった。うち32名は米軍の要請を受けて6月下旬に沖縄に移動し、米海軍 病院に収容されていた県民約400名の治療に従事した。 この部隊については全員の投票によって降伏か否かを決めたという話が一部の書物に書かれているが、事実ではない。戦時国際法で「軍医・衛生兵は通常の捕虜 として扱わない」と定められていることを「通常の捕虜ではないから、我々の投降は問題にならない」と解釈して降伏反対派を説得したというのが真相のようで ある。それでも投降に反対して壕に残った数人はその後の行方が不明であり、他の部隊と合流したと思われる。
 もう一つは要塞建築勤務第五中隊である。同隊主力は旅団司令部付近に配置されており、3月9日の斬り込みなどで中隊長以下多くが戦死し、生存者は50 名を割っていた。生存者は再び地下壕での持久戦に戻ったが、同隊の陣地は建築や土木の専門集団が築いただけに攻撃を受けても内部まで被害が及ばないよう工 夫されており、これらの有効性が証明されたために士気は高かった。だが、3月下旬、米軍はこの地下壕内部に海水を注入し始めた。次第に水位が上がるなか、 最上位者として指揮を執っていた小隊長の長尾長文准尉と佐藤 一蔵主計准尉は投降を決意した。「俺は52歳、もう若くはない。米軍の使役に使われたら、今のこの体では持つまい。お前達は若いのだ。死ぬことはない。俺 に構わず出ろ。」と長尾小隊長は言い、佐藤准尉も抗戦や自決を主張する部下を説得し続けた。
 翌朝、再び米軍が投降勧告にやってきたとき、長尾隊長の命令で残存の下士官兵40名余りが地下壕を出て投降した。それを見届けた長尾・佐藤両准尉は壕の 奥に入り、爆 薬で自決した。3月25日のことであったという。この中隊は結果的に約20%が生還しており、硫黄島守備隊の平均生還率は5%であるから異例といってよ い。

 一方、島の各地で戦闘を続ける将兵も少なくなかった。主なものとしては東海岸では歩兵第一四五連隊長の池田増雄大佐(5月まで生存?)、摺鉢 山地区では松下久彦少佐(生還)、長田謙次郎大尉(6月戦死)らがそれぞれ数十名を率いてゲリラ戦を続けたが、6月下旬までに米陸軍に捕捉され大部分が戦 死した。
 米軍の掃討戦は飛行場周辺を中心に終戦まで続き、降伏を拒否して地下壕の中で火炎攻撃などによって戦死したり、水や食料を求めての夜間斬り込みに出かけ ては射殺される将兵も多数に上った。その数は米軍の記録に残っている数字だけでも1602名となっている。地下壕の奥深くで負傷や病苦に耐えきれず自決し ていく者、そのまま衰弱死する者も至る所に見られた。

 3月末の段階で生存していた日本軍将兵が何名いたかは不明であるが、数千名単位であったことは確かである。生還者の手記などを見ても、5〜6 月に自決・戦死・戦病死という例は決して少なくない。終戦直後に軍の中堅幹部あたりが呼びかけを行っていれば、かなりの生存者が現れたはずとする意見さえ ある。だが、その多くは生還しなかった。

戻 る