栗林中将の訓辞と玉田戦記

玉田猛「硫黄島玉砕記」(月刊「今日の話題」5月号第45集)という小冊子がある。
 この「今日の話題」は大戦中、主に太平洋地域で戦った関係者の実戦記を集めたシリーズであり、羽切松雄・白浜芳次郎といった零戦ファンにはな じみ深い戦闘機パイロットの回想録などもある。小冊子を合本したものも出されるなど、かなりの人気シリーズであったようである。後にこの「硫黄島玉砕記」(以下、「玉田戦記」とする)は「戦史叢書」にも引用・参考文献として使用されたため、叢書に引用された部分はもちろん、玉田戦記自体を参考文献として使っている硫黄島関連本もある。そして玉田戦記からしばしば引用されるものが以下の栗林兵団長の最後の訓辞である。
「・・・たとえ草を喰み、土を囓り、野に伏するとも、断じて戦うところ、死中自ら活あるを信ず。ことここに至っては、 一人百殺、これ以外にない。本職は諸君の忠誠を信じている。私の後に続いて下さい」(P23)
このくだりは「戦史叢書」にも引用されている(p423)。それ故にそのまま多くの戦記に引用(孫引き)されているが、当の玉田戦記は信頼できる資料なの で あろうか。

 作者の意見では、玉田戦記は硫黄島戦生還者が書いたものかどうかさえ怪しい手記である。なぜなら、玉田戦 記と内容が極めてよく似た先行の手記が存在するからである。それは昭和27年に発表された、小野利根夫「硫黄島に生きる」(萩原頴雄『白骨の島』蒼樹社刊に収録)という手記である。まずは以下の対照表を参照されたい。

玉田猛「硫黄島玉砕記」(昭和32年) 小野利根夫「硫黄島に生きる」(昭和27年)
私の乗る利根川丸は、先頭から二番目であった。(中略)偶然とはいえ、乗船名 が、私の父玉田利根夫と同じであることが、一種の安堵感を与え、滅入りこもうとする気持ちを勇気づけるのであった。(P8) 私たちが乗った輸送船は「利根川丸」であった。私と同じ名の船に運ばれる偶然に、私は心強いものを感じ た。(P197)
被服類を整理していると、札束が出てきた。海水に濡れていたので(中略)百二〜三十円ほどあったのを、一 枚一枚のばして乾していた。その最中に、突然空襲警報が発令されたことがあった。定期便のB24である。
 私は紙幣をそのままにして蛸壺に身をひそめた。この空襲で、近くに爆弾が落ち、蛸壺にいた兵隊が三名、生き埋めになった(中略)すぐに掘り返したけれ ど、遂に死体はわからなかった。だが、私が乾しておいた紙幣は、何ごともなかったように、拡げたところに、そのまま乾ききっていた。(P13)
被服類を整理していると、札束が出てきた。これも海水でびっしょり濡れていた。百二、三十円はあった。 (中略)濡れて皺くちゃになっているのを、一枚一枚のばしては、乾かしていた。その時突然空襲警報が発令された。
 紙幣はそのままにして、私はタコツボに身をひそめた。定期便のB24である。近くのタコツボにいた兵隊が三名、爆撃のために生きうめになった。あとでい くら掘りかえしても、屍体はわからなかった。
 紙幣は拡げたところで、そのまま、乾ききっていた。(P209)
遂に、B29も姿を見せはじめた。その頃、私は母宛の手紙に「夜は冷え込んで寒い・・・」と書いた。 (P15) B29も、とうとう姿を見せはじめた。このころ、私は、母宛に「夜は冷え込んで寒い」と書き送っている。 (P212-213)
「第一飛行場は、向うだね?」指さしながら云うと、
「そうだ、行くんかね」
「ほかに行くところがない」
「そうか。無駄死にはするな」
「ありがとう。頑張ろうぜ」(P26)
「第一飛行場は−向こうだな」
「そうだ、ゆくのか」
「そこよりほかにゆくところはない」
「そうか。ムダ死はするな」
「がんばろうや」(P221)
どうやら前田部隊の洞窟の近くにきているようであった。(中略)
「泊めてくれ」(中略)
ところが、応ずる声は冷たかった。
「われわれは、われわれで行動しておる。戦闘しておるんだ。お前らは他部隊だから、一日ゆっくり休養したら、今夜は斬り込め」(P27)
前田部隊の洞窟の近くにきていた。(中略)
「泊めてくれ」
私たちは前田部隊の洞窟へもぐりこんだ。
「われわれは、われわれで行動しておる。戦闘しておる。お前らは他部隊だから、一日ゆっくり休養したら、今夜は斬り込め」(P222)
その洞窟は、奥行きが三百米もある立派なものだった。ここは、海軍部隊の洞窟ではあったが、かなりの陸軍兵がまじり、陸海混成部隊になっていた。総員は、八十名もいたろうか。そこで貰った握り飯−白米の握り飯は、たまらなくうまかった。(P28) その洞窟は、奥行が三百米もある立派なものであった。他部隊の者は出てゆけ、などとは云わなかった。そんなためか陸軍と海軍の混成部隊になっていて、総数は八十名近くいた。ここでもらった握り飯のうまかったこと!(P223)
迫撃砲弾だったのだ。(中略)見ると、右腕の前膊が削り取られて、白々と口をあけている。(中略)包帯を巻き付けた右腕には私の意志は通じない。だらりと、引きずっているだけであった。漸く痛みを感じ出したけれど、つらいとは思わなかった。(P30) 私も、とうとう腕をやられた。右腕の前膊である。迫撃砲弾だった。応急処置の包帯を巻いたきりの右腕は、だらりとぶらさがっていた。痛かったが、別に辛くはなかった。(P224)
私の案に同意した者が三名いた。一人は東京出身で、背が高く肥っていた。(中略)Bは、広島の産で中背、おとなしいが、喋る方だった。Cは、海軍設営隊員で、九州出身で、二十才ぐらいの青年だった。(中略)Aは、ダイナマイトの爆風で耳をやられ、頭が異常になっていた。(P34) 私の案に同意した者が三名いた。一人は東京出身で、背が高く肥っていた。(中略)Bは、広島の産で中柄、おとなしいが、喋る方だった。Cは、海軍設営隊員で、東京出身で、二十才前後の青年だった。(中略)Aは、あけがたの爆風で耳をやられ、頭が少し変になっ ていた。(P229)
三人を掘り起こした。Aは冷たくなっていた。BとCは、返事があった。(P34) 三人を掘り起こした。Aは冷たくなっていた。BとCとは、返事があった。(P231)
私は、ふらふらと歩いていた。Cも同じ気持ちだったのであろう、私と一緒に歩いていた。夢遊病者のように、洞窟の外へ出た。眩しい光、うまい空気!
 呆然と立ちつくす私たちを、ぐるっと取巻いている者があった。銃を構えた二十名ばかりの敵兵であった。(P35)
ふらふらと、光りに向かって歩いていった。Cも同じ気持ちだっただろうか?彼も私といっしょに歩いていた。そして明るい洞窟の外に出た。太陽が輝いていた。ああ、太陽!空気が何て旨いんだろう!
 米軍の兵士たちが、二十名ばかり、銃をかまえて私たちを取り囲んでいた。(P234)

 以上の表に引用した部分だけでも、別人の回想録とは考えられないほど酷似しているといってよいだろう。実際にはさらに共通点や類似点が見受けられる。それでは「小野利根夫」と「玉田猛」は同一人物(少なくとも一方はペンネーム)で、単に玉田戦記は当初の手記に加筆・修正をしただけのものなので あろうか。
 ところが、玉田猛は「野砲中隊長 元陸軍中尉」となっており、一方、小野利根夫は「元硫黄島守備隊街道部隊本部附陸軍伍長」となって いる。仮にこの両人が同一人物で、どちらかの名前がペンネームだとしても、階級がここまで違うということは不自然であるし、配属先も違う。しかも玉田戦記は後に別のペン ネーム で(内容は同一)単行本に収録されている。一人の人間がほとんど同じ内容の手記を三つの名前で発表するというのであればさらに不自然だといえよう。
 そしてまた、小野手記には記載がなく、「玉田戦記」にのみ書かれている事項には他の資料と一致しない内容や不自然な記述が多い。幾つかを挙げてみると、
  1. 田込大佐を長とする野砲第一〇一連隊約六千名の一部隊として父島に派遣されたとあるが、そのような部隊が父島に存在しない。父島の重砲兵第九連隊は約800名で、連隊長は大坪中佐であった。
  2. 中隊の砲は口径二〇〇粍、弾丸は榴弾砲、最大射程六千米、とあるが、該当する陸軍の兵器がない。
  3. 混成第二旅団砲兵隊には第一、第二、第三中隊が存在するが、「野砲中隊」は編成表にない。
  4. 米上陸部隊が着岸する直前に攻撃命令が出たので砲撃して大損害を与えたとあるが、栗林中将の作戦計画や米側記録と合致しない。
  5. 激戦の最中、しばしば旅団司令部に呼びつけられたと言うが、戦闘中に中隊長を不在にさせてしまうのは不自然である(伝令等を使うは ず)。
  6. 玉田中尉は二月二十三日に野砲中隊長から兵団司令部附に異動したとあるが、激戦の最中に前線の隊長を異動させるのは不自然である。
  7. 現存する小笠原兵団将校職員表には玉田猛の名がない。硫黄島はおろか父島・母島・南鳥島配属部隊にもいない。
  8. 硫黄島陸軍将校の生還者名簿によると混成第二旅団砲兵隊の生還将校はおらず、また兵団司令部の生還将校は衛生科の少尉である。したがって 「玉田猛」がペンネームだとしても該当する人物(砲兵科将校)がいない。
  9. 兵団司令部に副官竹中中佐と参謀山田大尉がいたとあるが、この2名も将校職員表にない。なお副官は鳥居原大尉と藤田中尉、参謀はすべて佐 官。
  10. 戦死したと書かれている玉田の部下の名前が戦没者名簿にない(各砲兵部隊だけでなく、海軍も含めた硫黄島全部隊の戦没者名簿から検索して も見つからな い)。
 このように、明らかにおかしな記述が目につく。名前が名簿にないことは「栗林中将のような著名人以外はすべて仮名にした」からと仮定することもできるが、それ なら「作中人物は基本的に仮名」との断り書きがあるべきではないだろうか。さらに「原則仮名」であれば最後に行動を共にした3人だけA・B・Cと表記するのも不自然である。ましてそれ以外の疑問点・矛盾点は説明のつけようがない。

 こういった点を考えると、玉田戦記は小笠原兵団にも所属していなかった人物が、小野手記などを盗用し(他手記からの盗用と思われる箇所もある)、さらに脚色を加えて書いた偽書であるとの疑念が生じる。少なくとも、資料として使用することは避けるべき文書といって差し支えないであろう。なお、小野手記については、記憶違いによるものと思われる多少の誤記はあるが、意図的な脚色は感じられず、他の記録とも矛盾する内容ではないため、おおむね信頼できるものと作者は考えている。
 さて冒頭に掲載した栗林中将の「訓辞」は小野手記にはなく(小野伍長は兵団司令部にいなかったので当然である)、先行する他の戦記にも作者が確認した限りでは記されていないばかりか、別の将校(武蔵野菊蔵中尉)が記した手記にはこれとは違う「最後の訓辞」が掲載されている(注)。そして前半部分については、昭和20年8月の阿南陸軍大臣の訓辞に酷似している。したがって現段階では「阿南訓辞を元にした、玉田戦記における創作である可能性が高い」と作者は考えている。そもそも、訓辞が「文語調で始まって、口語調で終わる」という点ですでに不自然ではないだろうか(実は作者が疑問を持ったきっかけはこの点である)。
(注)「予はこの攻撃中において諸君よりも先に、戦陣に散ることあるも、諸君の今日まで国に捧げたる偉功は必ずや空しゆうせず、今戦に敗れたりと雖も日本国民はこの忠君愛国の精神に燃えさかって散り行く諸君の勲功を讃え、その霊に対し涙して黙祷を捧げるの日いつの日か来らん。安んじて国に殉ずべし」とするのがその訓辞である。(武蔵野菊蔵「吾等はかく戦いかく敗れたり」『硫黄島決戦』蒼樹社刊 昭和27年 56頁より) 
 ただし、武蔵野中尉はこのとき師団司令部にいなかったので本人が直接聞いたものではない。何かに書かれていたものを引用したのか、他の生還者から聞いたものなのかは不明で ある。また、武蔵野手記も脚色が多いことに留意する必要がある。事実としても、本土に向けて打電した文章ではなく、原文が存在しないため、生還者の記憶に頼らざるをえない文章であるため、訓辞の内容そのままかは確認不可能であることも考慮すべきである。
戻 る