平成7年10月、当時硫黄島の基地整備関係の仕事をしていた私は渡島の機会を得られた。
航空自衛隊入間基地からC-130輸送機に乗ること3時間、私は硫黄島飛行場に到着した。輸送機の貨物室というだけあって、窓は小さく、さらに防音もし てないので轟音と薄暗い中での3時間である。早速、島の北部、天山台地にある日本戦没将兵慰霊碑へ。花を供えて黙とうする。その後、車に乗り、島内の主要 物を見て回ることになった。
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硫黄島飛行場とC−130輸送機 | 摺鉢山山頂から火口方面を望む。 海側は砲爆撃で崩れてしまった。 |
まずは島の南端にある標高167mの摺鉢(すりばち)山へ。南端といっ ても距離にすれば島の北端から8kmほどである。硫黄島の攻防戦で第一の山場がこの摺鉢山であった。山腹には海軍の砲台が造られており、島を一望できる頂 上には射撃指揮所を置き、上陸軍に対して効果的な攻撃指示を出せるようになっていた。それだけに米海軍の攻撃も徹底していた。上陸前日の昭和20年2月 18日、米軍は612回の空襲と丸一日の砲撃を加え、山の4分の1を吹き飛ばしてしまった。海軍の砲台はこれで全滅した。しかし翌日、米軍の上陸が始まる と地下の陣地に隠れていた日本兵が必死に抵抗し、米軍は大損害を受ける。
訪島から5年ほどして、私は硫黄島戦の生還者2名と話す機会に恵まれた。この米軍上陸の時について「戦闘が始まったとき、どんなお気持ちでし たか」と質問すると、一人(当時陸軍上等兵)は「何百という敵艦が島を取り囲み、砲爆撃を始めたときは『もう駄目だ、はたしていつまで保つか』と思いまし た。」と答えたところで、もう一人(当時海軍兵曹)が続けた。「私は負けるとは考えなかった。最後には勝てると思っていた。」そして付け加えた。「そう信 じていなければ、とてもやっていられませんよ。」
山頂に建てられている戦没者顕彰碑には各都道府県産の名石がはめ込まれている。全国から守備兵が集められて戦死したこと、そして全国からの慰 霊の気持ちを表したものであるという。
島を一周する道路を走るようなかたちで、一日目の行程は終了した。
二日目、宿舎を車で出発する。まもなく島の北部にある地下壕の入り口に着く。中に入るとたちまち猛烈な熱気に包まれる。低いと ころでも摂氏40度以上、高いところでは60度以上だという。島の北部には病院用に使われた壕や、栗林中将の司令部として使われた壕が残されている。
病院として使われた地下壕、高さは約2m。ここでは54柱の遺骨が収集された。 |
続いて、島の南部、千鳥飛行場の跡などへと向かう。ここには壊れた飛行 機の胴体を利用して造った陣地などが残っている。 半地下式なので、地下壕のような暑さはない。しか し、上陸地点にも近かったこれらの陣地は砲撃で鉄筋コンクリートの壁を破られ、さらには火炎放射器で攻撃された。中に残っていた機関銃も焼けただれ、銃身 が曲がっていた。
平成13年(2001)初頭、私はこの残骸を利用したトーチカで戦った一人と会う機会を得た。海軍少尉・硫黄島南海岸機銃砲台 長としてこのトーチカを築いた多田実氏である。多田少尉は硫黄島への空襲が始まった昭和19年6月、高射機関銃隊(25mm機銃10門)を指揮して米艦載 機と戦い、数十機を撃墜破した。しかし本格的な敵上陸に備えるため弾薬の消費量が厳しく制限されていたので、十分な戦果を挙げられなかった。そして米軍の 空襲が始まって10日目に当たる6月24日、トーチカの近くに爆弾が命中、多田少尉は重傷を負った。7月中旬、少尉は横須賀の海軍病院に送られた。そして 後任の山下昇少尉は20年1月に空襲で戦死した。
戦後、多田氏はジャーナリストとして世界各地を回った。あるときアメリカでスピーチを請われ、多田氏はこう話し始めた。「私は自分を爆撃で吹 き飛ばした米軍機に感謝したい。」
怪訝な表情になった聴衆に向けて多田氏は当時のことを詳しく話し、こう締めくくった。「あと少しでも近くに爆弾が落ちていたら、私は即死していただろ う。そしてあと少し遠かったら、そのまま硫黄島で戦い続け、生きて還ることはなかっただろう。」
客席からは大きな感動の声が湧き起こったという。
(多田実氏は平成18年6月3日に逝去されました。謹んでご冥福をお祈りします。)
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