3.戦跡を訪ねて(その2)
 さらに島の東部の地下壕に入る。このあたりの地下壕は島の中央部をめぐっての激戦が繰り返されたところであり、地下壕の入り口 付近の岩には無数の銃弾・砲弾の破片が突き刺さっている。中は先ほどのよりさらに暑い。硫黄ガスの臭いもさらに強烈である。懐中電灯を使ってもガスのため に奥の方が見えない。写真を撮るにも絶えずレンズの曇りを拭わなければならず、難渋する。このあたりの地下壕は特に入り組んでおり、迷路のようになってい る。また、内部の至る所に日本兵の生活、戦闘の跡を示す品々が残っていた。

  数ヶ月に渡り地下壕を掘り、 こ こに立てこもって生活し、戦った兵士たちの苦労は戦場を知らない我々には想像もつかない。地下に潜って隙を見て反撃を加える日本軍に対し、米軍は地下壕を 一つ一つ、徹底的に火炎放射器、爆薬で攻撃して回る「コルク抜き戦法」を取った。火炎放射器の火が届かない、深く入り組んだ壕については、入口から黄リン やガソリンを流し込み、点火して焼き尽くす方法を採ったり、ブルドーザーで入口を塞いで生き埋めにすることもあった。重砲弾の直撃を受けたり、地下壕で戦 死した将兵の多くは未だに遺体も発見されておらず、戦死者のうち、遺骨が収集されたのは平成18年3月現在で8551柱、4割程である。損傷が激しいた め、身元が判明して遺族の元へ還った遺骨は80柱にも満たない。なお、先の大戦における海外戦没者(硫黄島と小笠原を含む)は約240万人、うち日本に 還った遺骨は約124万柱である。
 後になって元基地工事の関係者から話を聞いていたとき、「80年代半ば頃、地面を掘り返していたら地下壕跡があり、遺体1体を発見した。その遺体は地下 壕の高温のためミイラ化しており、最期の苦悶の表情が見てとれた。その凄まじい形相に、遺骨収集に慣れていた人でさえ立ちすくんだ」との証言もあった。

サーチライト

飯ごう
入口付近にある海軍のサーチライト

飯ごうと機関銃弾が床に残る。
かまど
西連隊長碑
地下に作られたかまど。80cmはある。

西戦車隊長戦死の地。
 夕刻、戦車隊長西竹一中佐戦死の地を訪れる。(ただし、遺体は発見されていない。)男爵家の当主として内外の社交界で華やかな 生活を送り、さらに1932年のロサンゼルス五輪において馬術障害競技で優勝した西中佐であるが、今となっては最期の様子さえ知るすべもない。2日目の行 程はこれで終了した。

  3日目は硫黄島基地の近くにある記念館を見学する。 建物は旧軍のトーチカだったものである。記念館の前には日本軍戦車の砲塔やロケット砲などが置かれてい る。中に展示されている日本兵の遺品に手を合わせる。最後に自衛隊の宿舎と基地の工事監督官事務所を訪れ挨拶する。自衛隊員の宿舎は粗末で小さく、なかに はプレハブのものさえあった。平均して2年近くは在島するという彼らが気の毒に思えた。直前に見てきた米軍用が快適だっただけに一層そう思えた。(その 後、自衛隊用の隊舎は建て直されているので、今は違うだろう。)

ロケット砲
戦車砲塔
日本軍の20cmロケット砲

97式戦車の砲塔の残骸。



92式機関銃
高射機関砲
日本軍の92式重機関銃

工事事務所の前の高射機関砲

 昼過ぎ、再びC−130輸送機に乗り込み、硫黄島飛行場より離陸。再び3時間ほどの飛行の後、入間基地へ。入間上空で気流が乱れ、かなり機体 が揺れたものの、無事に到着した。「寒い!」これが帰り着いたときの第一声である。硫黄島は10月末でも30度近い暑さだが、入間はもう秋も深まりつつあ るころなのだから。

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1. 位置とあらまし   .  2.戦跡を訪ねて(その 1) 3.戦跡を訪ねて(その2)
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4.硫黄島の自然    , 5.硫黄島写真館(その1) 6.硫黄島写真館(その2)
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7. 遺品返還の記   . 8.もう一人のメダリスト 9.硫黄島戦資料他   
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10.小笠原・火山 列島資料 11.エピローグ・・・   
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