6.硫黄島写真館(その2)
慰霊の地
日本側碑文 米側碑文

「名誉の再会(REUNION OF HONOR)」碑

日本側碑文 米側碑文
 「再会の祈り」

 硫黄島戦闘四十周年に当たり、曾つての日米軍人は本日茲に、平和と友好の裡に同じ砂浜の上に再会す。

 我々同志は死生を越えて、勇気と名誉とを以て戦ったことを銘記すると共に、硫黄島での我々の犠牲を 常に心に留め、且つ決して之を繰り返すことのないよう祈る次第である。

 昭和六十年二月十九日

米国海兵隊
第三第四第五師団協会

硫黄島協会

REUNION OF HONOR

ON THE 40TH ANNIVERSARY OF THE BATTLE OFIWO JIMA, AMERICAN AND JAPANESE VETERANESMET AGAIN ON THESE SAME SANDS, THIS TIME INPEACE AND FRIENDSHIP.

WE COMMEMORATE OUR COMRADES, LIVING ANDDEAD, WHO FOUGHT HERE WITH BRAVERY ANDHONOR, AND WE PRAY TOGETHER THAT OURSACRIFICES ON IWO JIMA, WILL ALWAYS BEREMEMBERED AND NEVER BE REPEATED.

FEBRUARY 19, 1985

3RD,4TH,5TH DIVISION
ASSOCIATIONS USMC

AND

THE ASSOCIATION OF IWO JIMA

 昭和60年2月19日、つまり硫黄島に米軍が上陸して40年目に当たる日に、「名誉の再会」と呼ばれる行事が行われた。参加し たのは硫黄島戦に参加した両軍の兵士、遺族ら約500名、場所は米軍が上陸した二ッ根浜である。会場中央には両面に文が刻まれた石碑が建てられ、日本文が 刻まれた山側には日本人参加者が、英文が刻まれた海岸側には米国人参加者が整列した。つまり、碑の両側に40年前と同じ態勢で双方が向き合ったのである。 しかし、除幕と献花が行われたあと、参加者たちは碑に向かって歩み寄り、握手・抱擁を交わし合った。今や60歳を過ぎたかつての将兵たちが恩讐を越え、抱 き合って泣いたのである。

 その後、平成7年(1995)3月には50周年記念、平成12年(2000)3月には55周年の日米合同慰霊祭がこの碑の前で行われている。

祈念公園
硫黄島島民平和祈念墓地公園

 戦後、戦没者の遺骨収集だけでなく、かつて硫黄島村の墓地があったこの場所で、旧島民の遺骨調査が行われた。しかし旧島民墓地は戦火によって 跡形もなくなっていただけでなく、地下に眠っていたはずの遺骨さえ全く発見できなかった。ここに葬られていた278名の旧島民と、硫黄島戦で戦死した島出 身の軍属82名への、墓参及び慰霊をしたいという旧島民の強い要望を受けて、祈念公園がつくられており、園内には「硫黄島旧島民戦没者の碑」と「硫黄島開 拓の碑」が建立されている。


高尾山の硫黄島戦没者慰霊碑と平和観音

 この慰霊碑は高尾山の薬王院(東京都八王子市)境内にある。建立したのは独立歩兵309大隊機関銃中隊長であった阿部武雄元陸軍中尉である。 阿部中尉は両脚に負傷した後、さらに火炎放射器で攻撃された。全身に火傷をしつつも阿部中尉は部下と共に地下壕に潜伏を続け、遂に意識不明の状態になって いたところを米軍に発見され収容された。そのときは4月も終わる頃であり、火傷が化膿し、腐敗さえ始まっていたという。

 硫黄島への渡島は回数も人数も制限されていることから、この慰霊碑と隣の平和観音への参拝をもってせめてもの墓参代わりとする遺族も少なくな い。慰霊碑は薬王院の仏舎利塔の裏に建立されているため、高尾山への観光客はそのまま薬王院の奥の建物や山頂方面へと通り過ぎてしまい、この碑を訪れる人 は少ない。

 作者は何度かこの慰霊碑を訪れているが、ある時、幼児の手を引いた若い女性が先に来ており、参拝をすませた後、「おじいちゃん、また来るから ね。」そう碑に語りかけて立ち去った。わずかな時間の出来事であるが、いまだに印象深い光景である。


硫黄島戦の記念切手(作者所蔵)

 この3セント切手は1945年7月11日に発行されたものである。発売されるや大変な人気となり、実に1億5千万枚以上が 売れた。

 図柄に使われている「摺鉢山に星条旗を掲げる海兵隊員」の写真はニューヨーク・タイムズ紙1945年2月25日号のトップを飾り、米国民を熱 狂させたものとして有名である。米国では今でもこの写真が小学校の歴史教科書に掲載されているという。(撮影はJ.ローゼンソール)

 この写真は最初に掲げた小さな旗を大きな旗に取り替えたときのものであったが、写っている6人はたちまち英雄として有名になった。写真左から I.ヘイズ、F.サウスレイ、J.ブラッドレー、H.ブロックの4人が並び、サウスレイの後ろにM.ストランク、ブラッドレーの後ろにR.ガグノンが隠れ ている。

 このうちサウスレイ・ブロック・ストランクの3人は3月に北地区での戦闘で戦死、自分たちが英雄になったと知ることはなかった。
 ヘイズとガグノンは無事に帰還したが、有名になったことで心労が重なったためか、それぞれ1955年と1979年に急死している。特にヘイズの晩年はア ルコール中毒に蝕まれる悲惨なものであった。(ヘイズは「全国民に愛された最初のインディアン」とも呼ばれた。このような当時の米社会の実状が彼をアル コール中毒に追いやったとも言われる。)

 ブラッドレーは3月、両脚に負傷して後方に送られた。やはり戦後は英雄視されたが、1994年に死去するまで多くを語らず、時には「硫黄島で の本当の英雄は還って来なかった人たちだ。("The real heros of Iwo Jima are the guys who didn't come back.")」と答えていたという。
 旗を揚げた直後の2月26日には「生涯最高の瞬間」と誇らしげに両親に書き送っているブラッドレーであったが、帰国後、この手紙をしまい込んで妻子にも 見せず、彼の死後、遺族によって発見・公表された。その後の戦闘で仲間の大半が死傷したのに、自分だけが英雄視されていることが重荷になっていたのだろう か。確かに、この写真が有名になりすぎたため、「摺鉢山に星条旗が翻って戦いは終わった」と誤解している米国人も多い。摺鉢山占領の後に続いた1ヶ月以上 の激戦で死傷した米兵や遺族の中には、硫黄島戦に参加したことを誇りに思いつつ、この「勝利の象徴」である写真を見て複雑な気持ちになる人が少なくないこ とも事実である。

 なお、6人のうち3人とはいえ、存命中の人物が切手の図柄に使われたのはアメリカ郵政史上初の出来事であった。

 この切手は作者が所蔵しているもので、写真中のジョン=ブラッドレーの御子息で作家でもあるジェイムス=ブラッドレー氏が取材のために来日し た際に寄贈を受けたものです。貴重な証言を寄せて下さったことも含め、この場であらためて氏に御礼申し上げます。



海兵隊記念碑(アーリントン国 立共同墓地:谷川永洋氏撮影・提供)

 ヴァージニア州のアーリントン国立共同墓地には上記の写真を 元 にした巨大な銅像が築かれている。

 彫刻家フェリックス=デ=ウェルドンが6年近い期間をかけて制作したものであり、総重量は100トンを超え、6体の銅像の平均身長は約 10m、台座からポールの先まで含めた総高は約33mになる。製作費は85万ドル(当時のレートで3億6百万円)であった。

 像の除幕式は1954年の海兵隊設立記念日(11月10日)に行われ、生存していた3人と戦死した3人の遺族、さらにアイゼンハワー大統領、 ニクソン副大統領、硫黄島戦を指揮したスミス元海兵隊中将、バンデクリフト前海兵隊総司令官(ガダルカナル戦での海兵第1師団長。その息子も海兵隊の大隊 長として硫黄島戦に参加し重傷を負った)ら7千人以上が出席した。なお、生存していた3人が顔を合わせたのはこの式典が最後であったという。
 現在でもこの像は観光名所となっており、連日多くの人々が見物に訪れている。

 この像はしばしば「イオウジマ・メモリアル」として紹介されているがこれは俗称であり、正式名はあくまでも「合衆国海兵隊記念碑」である。そ のためか台座には星条旗を掲げた6人の名前は記されてはいない。
 代わりに米国独立戦争以来、海兵隊に多くの戦死者を出した戦場名が台座に記されている。最近の戦争や紛争についても、その戦場の名前が台座に追記されて いるが、新たに文字を彫り込む際には上下両議院での議決と大統領の承認が必要とされている。最近のものでは、レバノン・ペルシャ湾(湾岸戦争)・ソマリア などが追記されている。

 なお、記念碑の写真をクリックすると、さまざまな角度から撮影された記念碑の写真を見ることが出来ます。

 これら記念碑の写真はいずれも作者の旧友・谷川永洋氏が撮影し、私へと提供されたものです。この場を借りてあらためて感謝します。


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1.位置とあらまし   .  2.戦跡を訪ねて (その1) 3.戦跡を訪ねて (その2)
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4.硫黄島の自然    , 5.硫黄島写真館(その1) 6.硫黄島写真館(その2)
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7. 遺品返還の記   . 8.もう一人のメダリスト 9.硫黄島戦資料他   
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10.小笠原・ 火山列島資料 11.エピローグ・・・   
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