8.もう一人のメダリスト〜硫黄島で戦死した水泳選手・河石 達吾〜

 硫黄島で戦死した五輪メダリストといえば、多く の方はバロン西こと西竹一戦車連隊長を連想されると思います。西竹一は昭和7年(1932)のロサンゼルス大会の最終種目・馬術障害にて見事優勝し日米の英雄となりました。そして、硫黄島での最期と併せて、バロン西の生涯は栄光と悲劇を織り交ぜて語り継がれています。
 一方、奇しくも同じ大会に参加し、水泳の男子100m自由形で銀メダルを獲得した河石達吾(かわいし たつご)選手もその12年後、西竹一中佐と時を同 じくして硫黄島に渡ることになったのです。
 この章ではバロン西に比べ、ほとんど語られることのなかった河石達吾について紹介します。
写真はオリンピックから凱旋したときに生家で撮影されたもの。:遺族提供)

生い立ち

 河石達吾は明治44年(1911)12月10日、広島県の東能美島にある大柿村(現:江田島市)に生まれた。大正13年3月、地元の大古尋常 小学校を卒業すると、広島市内の修道中学(現:修道学園)に進学した。このころから水泳でも頭角を現し、同中学校の大横田勉・河津憲太郎と共に「水泳の三羽烏」と称されるようになった。なお、河石より2年ほど学年が下である大横田・河津の二人はその後明治大学の水泳部で活躍、ロサンゼルス五輪において大横 田は400m自由形に、河津は100m背泳に出場、いずれも銅メダルを獲得している。
 修道中学卒業後、河石は慶応大学法学部に進学、ここでも水泳部で活躍した。この慶應の学生時代には福沢家に書生として住み込んでいた。河石は当時としては珍しい180cm近い長身であったが、脚がやや細かったので、このころは一枚刃の鉄下駄を常用して足を鍛えていた。

ロサンゼルス五輪大会

 大学3年の時、河石はついに五輪代表に選ばれた。6月に決定した水泳代表41人のうち、男子100m自由形代表選手は、宮崎康二(浜松一中、 現:浜松北高校)・高橋成夫(早大)・河石達吾(慶大)の3人であった。選考大会での成績は5位と振るわなかったため、代表に選ばれることはないと考えていた河石は発表の当日、会場の神宮水泳場(現:神宮プール)には行かず、銀座に出かけていたが、店のラジオからニュースが流れ、自分の名前が代表選手とし て報じられたのであわてて会場に駆けつけたとの話が残っている。

 昭和7年8月6日15時30分、水泳の2日目、男子100m自由形の決勝戦が行われた。会場には約8千人の観客が詰めかけていた。

 決勝に進出した選手は日米それぞれ3名ずつ、
 1.シュワルツ 2.河石 3.トムソン 4.高橋 5.宮崎 6.カリリ
 の順番でコースに並んだ。

 レースはまずトムソンが飛び出し、カリリと宮崎がこれに続いた。50mのターンの時点で河石は5位であった。しかし後半、宮崎と河石は順位を上げ、ゴール直前、一気に先頭に出た。

 結果は、宮崎が優勝(58秒2)、河石が2位(58秒6)、シュワルツが3位(58秒8)、高橋は5位(59秒2)であった。
 しかも宮崎のタイムは五輪新記録であり、河石もまた五輪記録タイ、高橋は日本記録タイという堂々たる成績であった。
 河石は「カリリやシュワルツ等に勝つとは夢にも思いませんでした。私としては最後のタッチに気をつけて、それで幾分なりとも勝とうと努力したつもりです。」と試合直後のインタビューに答えている。 

 この大会で男子水泳は6種目中5種目で優勝するという素晴らしい成果をあげ、まさに「水泳王国日本」であったが、一方で河石選手のように好成 績ながら金メダルに届かなかった選手の活躍が(金メダルも日本選手ではなおさら)目立たなくなってしまったことは否めない。

・・・ 河石達吾とロサンゼルス五輪 ・・・

水泳教師から会社員に

 翌年の夏、故郷に帰っていた河石は、東能美島と陸続きである江田島の海軍兵学校から同校で水泳の指導をするように依頼された。この時期の兵学校在籍生は62期から64期にあたる。当時の海軍兵学校は7月1日から1ヶ月間、午後2時から4時半まで水泳の訓練があ り、この期間中、実家から江田島ま で自動車での送迎があったという。さらに水泳指導のお礼として海軍から練習機を贈られたため、河石はこの飛行機を母校・大古小学校に寄付し、同校の校庭に 展示されることになった。この飛行機は複葉の水上機であり、小学生たちがよじ登って遊んでいたという。残念ながら、この飛行機は太平洋戦争開始後に海軍の要請を受けて返還したので現在は残っていない。 

 その後、今度はかつて住み込んでいた福沢家からの紹介で大同電力(現:関西電力)に入社した。河石はここでも水泳部に所属、入社早々に模範泳法を披露し、後進の指導にも当たっていた。会社は大阪の堂島にあり、河石は箕面の独身寮から通勤していた。

 この間、河石は召集されて陸軍へ入隊、広島の歩兵第11連隊に配属されて中国へ渡った。そして5年近い軍隊生活を送った後、陸軍少尉となって 除隊した。一時期には小隊長も務めたが、敵と遭遇したときに、血気にはやる部下が無理な突撃をする事を戒めるなど、常に冷静な指揮官であったという。

 兵役を終え、日本発送電(注)と名を変えた会社に帰った河石は再び会社員としての生活を始め た。やがて結婚した河石は神戸に居を構えた。会社員として、家庭人としても、そのまま幸福に人生を歩んでいくと周囲は思ったであろう。

(注)日本発送電は昭和14年に各地の電力会社などを統合して設立された国策会社で、国内の電力事業を一手に 引き受けていた。戦後GHQにより分割され、現在の関西電力・東京電力といった各電力会社になった。

独立混成第一七連隊第三大隊

 河石に再び召集命令が来たのは昭和19年6月末であった。河石は自分の行き先を知る由もなかったが、生家を出るとき、見送りに来た兄嫁に「二度と生きては帰れません。後のことはくれぐれもよろしく」と言い遺し出征した。7月3日付で陸軍中尉として独立混成第17連隊(広島)に配属された河石は 7月10日、横浜の瑞穂埠頭から小笠原へと出発した。実は17連隊の配置については7月に入ってからも小笠原方面か伊豆諸島かが二転三転して決まらず、7 月7日にようやく小笠原兵団への配属が決定される慌ただしさであった。さらに連隊は二つに分けられ、第1・2大隊は父島に、河石の所属する第3大隊と通信 隊が硫黄島に配置されることになった。第3大隊(隊長:藤原環少佐、陸士49期、27歳)が硫黄島派遣になった理由は、師団司令部が「陸士出身の若い大隊 長」を強く要求したためである。利根川丸に乗船した部隊は7月15日に父島に上陸、硫黄島への進出は7月23日であったが、それに先立つ7月19日、父島 に駐留していた第3大隊はマリアナより飛来した3機のB-24の爆撃に遭い、兵士1名が戦死した。河石ら大隊本部の将兵は輸送艇(SB艇)で硫黄島に向かったが、他の将兵は徴用された漁船に分乗しての進出であった。

 河石属する第3大隊は独立機関銃第1大隊第2中隊(隊長:曽根川廣恵中尉)・海軍北地区砲台群(指揮官:板橋音丸大尉)などと共に北地区隊 (陸軍約3,500名、海軍約1,700名)の主力として栗林司令部の防備につくことになった。第3大隊には約20名の将校がいたが、大隊長以外は応召の 予備役で、年齢も30代か40代の者が大半であった。彼らは10年以上軍務から離れていたため、九九式小銃などの新式の武器に慣れていない者が多かった。 (反面、銀行員として20年近い滞米経験を持つ予備士官もいた。)下士官や兵も同じで現役兵は一人もなく、全て予備・後備役であり、召集は4〜5回目という者までいた。
 第3大隊の陣地は司令部周辺と北地区海岸沿いの要所に築かれていた。北地区隊長は藤原大隊長が兼務し、河石中尉はその副官であった。河石副官の任務につ いて詳しい記録は残されていないが、一般的に副官の仕事は総務・経理に関することであるため、各種書類の作成や他部隊との連絡調整などにあたっていたと推 定される。なお、大隊の陣中日誌は19年7.9.10.12月分が現存しており、7月と12月分は河石中尉が記述したものである。

 9月に入り、第3大隊では野戦病院への入院患者が急増した。記録によれば9月には138人が新規に入院、うち133名が戦病、5名が戦傷と なっている。これは8月の新規入院患者数の約2倍であった。入院に至らなくても多くの者が体調を崩し、大隊で重労働をこなせるのは100名ほどになってい た。劣悪な生活環境と陣地造りのための過酷な作業が原因であり、この時期の部隊日誌を見ると病死者の記録も目につくようになる。そして河石中尉も9月中旬 に腸チフスに冒され、およそ2ヶ月間にわたり野戦病院に入院することになった。しかし12月には副官の任務に復帰し、空襲や艦砲射撃が日々激化していく 中、野戦病院へ視察と見舞いに訪れたとの記録も残っている。藤原大隊長の回想によれば12月末には硫黄島守備兵のうち約3千名が入院していたという。

硫黄島に散る

 昭和20年に入り、河石から最後の便りが年賀状として家族に届いた。そこには「生まれて初めて暑い正月を迎えました」と記されていたという。 これは機密保 持のために自分の居所を手紙に書くことが許されなかったので、本土より南方にいることだけでも家族に伝えようとした将兵たちによるせめてもの工夫であっ た。
 北地区隊にも変化があり、大隊長藤原少佐は1月中旬に病気入院、曽根川中尉が北地区隊長代理となったが、1月末に下間嘉市大尉が第3大隊長に任命され、 同時に北地区隊長を兼ねることになった。そして陸軍大学校への入学が予定されていた藤原少佐は本土へ転出し、大隊に陸士出身者はいなくなった。2月の米軍 上陸直前には司令部強化のため師団直属の高射砲隊や迫撃砲隊などが編成され、これらは北地区隊の指揮下に入った。兵力の増強と共に訓練も行われたが、弾薬 不足のため実弾射撃訓練は一度も行われないまま、米軍を迎えることになった。

 北地区での戦いが激化したのは3月初日からであった。北地区隊は北飛行場に突入してきた海兵第5師団と激戦を繰り広げた。高射砲隊が迫り来る 米戦車を次々と撃破したが、その砲弾もまもなく尽きた。すでに戦車の過半を失っていた西戦車連隊からも一部が増援に駆けつけたが、5日にわたる米軍の猛攻 により北地区隊は大損害を受けた。
 このため栗林兵団長は6日までに部隊の再配置を行い、東地区隊の独立歩兵第314大隊を北地区隊に合流させた。そして北地区を二分して東側の天山周辺を 北地区隊に、西側の漂流木海岸付近は歩兵第145連隊の残存将兵に担当させた。これにより、それまで北海岸の防衛と司令部援護が主任務であった第3大隊は さらに最前線に回ることになった。

 3月10日、第3大隊は天山南方の北飛行場付近に陣地を構築中、正面及び右後方の2カ所から攻撃を受け、3日間にわたる戦闘の後に大隊はほぼ 壊滅した。北地区隊の他の部隊もこの頃までに同じ状況となり、残存将兵の一部は兵団司令部に合流、26日未明の最後の突撃に加わって戦死した。その他の守備隊員は峡谷の多い複雑な地形を利用し、少人数のグループに分かれて抗戦を続けたが、やがて各個撃破されていった。
 第3大隊405名のうち、生還者は10名であった。一方、攻撃した米第5師団も北地区での戦死者は3月10日以降だけでも600名を越え、重傷者は1600名以上に達した。

 他の戦没者と同じく、河石達吾中尉も「3月17日に硫黄島で戦死」と型通りの戦死の公報が出され、陸軍大尉に昇進した。しかしその最期の様子について語るものはいない。享年33歳であった。

 戦後、遺族へ寄せられた証言の中に、「北地区に合流してきた旧東地区隊の将校が、再び東地区の陣地へと移動することを提案し、第3大隊の将兵も同行するよう河石中尉に相談していた」との話がある。
 証言者の目撃談ではなく、伝聞と思われる話なので信頼性に疑問はあるが、もし事実であれば、小笠原兵団最後の突撃が行われた3月26日以降のことと見るのが自然であり、河石中尉が3月末から4月初頭には北地区の地下陣地内で生存していたことになる。しかしこれを裏付ける資料も、否定する証拠も存在しな い。
 東地区への脱出案とは敵中突破なのか、海岸沿いに迂回するのか、筏を作って海上を移動するものだったのか、そして実行されたのかどうかも不明である。

 戦後も金メダリスト・西竹一中佐の名声にかき消されたのか、河石達吾の名が語られることはないに等しい。ただ国立競技場内にある「秩父宮スポーツ記念館」に西とともにわずかな展示があるだけである。

・・・ 河石達吾ゆかりの地を訪ねて ・・・

 この章についての取材・調査においては、遺族である河石猛氏及び河石真由美氏から貴重な証言・写真・資料の提供、その他多大な御協力を受けま した。両氏に厚く御礼申し上げます。

(初出:平成13年2月19日、最新改訂:平成16年11月1日)

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1.位置とあらまし   2.戦跡を訪ねて(その1) 3.戦跡を訪ねて(その2)
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4.硫黄島の自然    5.硫黄島写真館(その1) 6.硫黄島写真館(その2)
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7.遺品返還の記    8.もう一人のメダリスト 9.硫黄島戦資料他   
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10.小 笠原・火山列島資料 11.エピローグ・・・  
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