1.位置とあらまし

 硫黄島は東京より約1200km南、東京−グアム島のほぼ中間の場所にあります。小笠原諸島の中核となる父島列島・母島列島からでも南南西に 200km以上あります。地質学的には富士、伊豆七島の系列にあり、小笠原列島とは別の地質です。北硫黄島・硫黄島・南硫黄島の三島からなる火山列島の発見は1784年、キャプテン・クックの部下ゴアによるといわれています。正式に日本領土になったのは明治24年(1891年)です。火山島であり、周りの島々からも遠いことから、明治時代の入植以前には無人だったと思われていました。しかし近年、縄文人が小笠原か伊豆諸島から来島していた可能性も指摘されています。明治以降、硫黄の採掘、砂糖や薬草の栽培が始まり、二ヶ月に1本の定期航路も開始されました。太平洋戦争が始まる頃には人口は本島で約1000人、北硫黄島で約190人となります。

 しかし、昭和19年、強制疎開が始まり、軍属として16歳以上の男性160人が小笠原(うち硫黄島には103名)に残った以外、島民は本土や伊豆諸島に移ることになりました。その後まもなく空襲が始まります。米軍がサイパン・グアムの基地から本土空襲をする際の中継基地として硫黄島を占領するのは明らかでした。小笠原地区兵団長の栗林忠道中将は質量ともに優る米軍に対抗するため、地下に坑道を掘り、そこに立てこもって持久戦を行う作戦に出ました。しかし、硫黄島の地下は猛烈な暑さと硫黄ガスのため、なかなか作業は進みません。また、陣地を作るのに必要なセメントなどの物資も内地での絶対量が不足しており、輸送船も次々と米潜水艦に沈められるので要求した半分ほどしか届きません。結局、坑道の長さは計画では28kmでしたが、18km程しか完成しませんでした。食料や弾薬も充分に届きません。厳しい気候と栄養不足のために病気で倒れていく将兵も少なくありませんでした。

 昭和20年2月、ついに上陸部隊6万1千人(海兵隊)、火力支援・補給担当(海軍)22万人からなる米軍の攻撃が開始されます。対する日本軍は約2万1千人、しかも飢えと病気のため実動兵力はこの半分ほどでした。地熱や飢えや渇きに耐えつつ長期戦をするよりはバンザイ突撃や自決を望む将兵も少なくありませんでした。しかし栗林中将は死を急ぐことを戒め、少しでも長く、効果的な抵抗を続けるよう命じ続けます。このため、米軍は当初、5日ほどで戦いは終わると予想していましたが、日本軍は実に1ヶ月以上戦い続けます。しかも、米軍の死傷者は日本軍を上回っていたのです。

 生還した越村敏雄元一等兵は次のように回想しています。

「太平洋戦争の全期間を通じて、これほどの出血を米軍に強要した戦線はなかったとして、戦史に特筆されている。だが、それだけではあの島で死んでいった二万の将兵は惨めすぎるであろう。
 彼らは島に揚陸されたその日から、硫黄と塩の責め苦から逃れることが出来なかった。それはこの島で死ぬまでつきまとった。燃えるような渇きが襲いかかり、激しい下痢と高熱に冒された。そして、やがてこの島に特有の恐ろしい栄養失調症にとりつかれ、果ては、立木が枯れるように無数の兵が上陸を前にして死んだ。そして痩せさらばえて生き残った人間の集団が、凄まじい火力と鋼鉄に激突して全滅した。」
(越村敏雄『硫黄島守備隊』(徳間書店)7頁より) 
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1.位置とあらまし   .  2.戦跡を訪ねて(その1) 3.戦跡を訪ねて(その2)
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4.硫黄島の自然    , 5.硫黄島写真館(その1) 6.硫黄島写真館(その2)
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7.遺品返還の記   . 8.もう一人のメダリスト 9.硫黄島戦資料他   
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10.小笠原・火山列島資料 11.エピローグ・・・   
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