7.遺品返還の記

 平成11年(1999)8月中旬、私の所にアメリカのテキサス州からメールが届きました。差出人はアメリカ長期滞在中の日本人、森岡氏。内容は「知り合 いのアメリカ人が、硫黄島で戦死した日本兵の遺品を持っており、それを遺族に返還することを希望している」というものでした。

 詳しく問い合わせてみると、遺品は寄せ書きの入った日章旗で、所有者であるDale.Dorsey氏の父が硫黄島で日本兵の遺体を埋葬してい る際に、戦死者のポケットから見つけて持ち帰ったものでした。Dorsey氏が森岡氏に旗に書いてある文字の意味を訊いて「寄せ書き」であると知り、ぜひ 遺族へ返還したいと希望したということでした。

 森岡氏はメールで日本の全国紙数社に連絡してみたものの、何の返答もなかったため、「硫黄島」をテーマにしたHPを掲示している私の所に相談 することにしたそうです。そして以下の写真も送付されてきました。

日本兵の遺品
(森岡氏撮影・提供)

 旗には確かに「野村長吉君」と持ち主の名前があったので、8月28日、私はHPにこの写真を掲示し、情報提供を呼びかけました。そして9月上 旬、硫黄島戦の生還者や遺族の方々で構成されている「硫黄島協会」にも連絡し、協力をお願いしました。

 そして、忘れもしない10月9日、硫黄島協会から私の所に連絡が入り、「戦没者名簿に野村長吉さんの名前があることを確認しました。富山県出 身で砲兵の方です」と連絡が入り、森岡氏を通じてDorsey氏に連絡すると、私の自宅にこの日章旗が送られてきました。55年ぶりに日本に帰ってきた日 章旗を見た時の私の感動はこれまでにないほどのものでした。

 数日後、硫黄島協会長遠藤喜義氏(硫黄島戦当時は海軍少尉・北硫黄島派遣隊長)に遺品をお渡しし、後事をお願いしました。遠藤氏は厚生省や日 本遺族会と連絡を取り合い、野村さんの御遺族の消息をたずねたところ、11月中旬になり野村長吉さんの2人の御子息が富山県井波町にお住まいであることが 判り、連絡を取ることができました。

 実は、野村家には「中部太平洋にて戦死」という公報のみが入っていたため、長吉さんが硫黄島に行ったことさえ知らされていなかったのです。そ のため「輸送船が撃沈されて戦死した」ものと考え、遺品なども無かったため、長吉さんが中国戦線で負傷したときに欠けてしまった歯を遺骨代わりにしてお墓 を建てていたのです。

 富山県遺族会によれば「このような遺品が外国から返還されるのは他の戦場も含めて、富山県では戦後初めてではないか」ということで地元では大 きなニュースとなりました。

 そして12月10日、富山県遺族会英霊記念室において、硫黄島協会から野村さん御兄弟への返還式がとりおこなわれました。硫黄島協会からは遠 藤会長、西泰徳副会長(西竹一連隊長の御子息)、富山支部長が出席し、富山県遺族会をはじめとする関係者の立ち会う中、感動の伝受式が行われたのです。

返還式(平成11年12月10日)

日章旗が遠藤会長(手前)と西副会長(奥)により広げられる。
日章旗が広げられたところ。
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白木の箱に収められ、遺族に手渡される。
白木の箱を前に涙ぐむ野村さん御兄弟


(写真撮影及び提供:富山県遺族会)
 返還式においては、Dorsey氏から寄せられたメッセージも遺族へ伝達されました。
To the family of Chokichi Nomura,
  I would like to thank you for sharing a part of your culuture with me. The flag has always been a treasured memory for me of my father Raymond E.Dorsey who passed away in 1976. I have held this flag with respect and have been in awe it's beauty. What was Chokichi's became mine, what is mine now becomes yours. If the flag had not come to me it may not have come home to you. I will always remember Chokichi, his flag, and his honor. Best wishes and a long life.
長吉さんのご家族へ
 皆様の文化の一部を共有させていただいたことを感謝いたします。この旗は1976年に死去した私の父、Raymond E.Dorseyの想い出として大切にしてきたものです。私はこの旗を常に敬い、また美しさに感心しておりました。長吉さんのものが私のものとなり、今ま た皆様のものとなります。この旗が私の所へ来なければ、皆様の所に還ることもなかったでしょう。私は長吉さんのこと、この旗、そして彼の名誉を忘れませ ん。皆様の幸せとご長寿をお祈りします。(作者訳)

 野村長吉さんの長男、長信さんによれば、長吉さんが出征したのは昭和19年冬、大雪の日だったということです。出身地の利賀村をあげて見送り が行われ、そのときに村のみなさんからの寄せ書きを贈ったとのことです。そして独立混成第二旅団砲兵隊兵長(戦死により軍曹に特進)として硫黄島に赴き、 享年37歳にして散華されたのです。

 最後になりましたが、日章旗を大切に保管し、かつ返還を快諾されたDorsey氏、連絡や情報をお寄せいただいた森岡氏、そして遺品の身元確 認と遺族を探すことに尽力された硫黄島協会、富山県遺族会、厚生省社会・援護局、富山県厚生部、富山県井波町、同利賀村の皆様、そして私のHPを見て助言 や励ましのメールを下さった方々に心から感謝申し上げます。私のHPがこのような形で、少しでもお役に立てたことを大変嬉しく思っております。この感動は 私にとっても一生忘れられないものとなるでしょう。そして機会あれば今後も戦没者の遺品を遺族へ返還していくことに協力していきたいと思います。(平成 11年12月26日)

 返還式から5ヶ月後、富山を訪れた私は野村さんのご自宅を訪問しました。そこで野村さんが一枚の写真を見せてくださいました。それは出征前に 撮影された、家族揃っての記念写真。そこに写っている野村軍曹は今回還ってきた寄せ書き入りの日の丸をたしかに手にしていたのです。(平成12年6月7日 追記)


 遺品返還の際しての調査では、野村長吉さんが独立混成第二旅団砲兵隊に所属していたことまでは判明した。だ が旅団砲兵隊を構成していた3つの中隊は屏風岩・摺鉢山・大阪山の3カ所に分散して配置されており、どの中隊に野村さんが所属していたかについては厚生省 社会援護局(当時)や遺族会所蔵の資料にも記録がなかった。そのため野村さんがどの陣地にいたかは不明のままであった。ところが平成14年9月、作者は偶 然にも「混成第二旅団砲兵隊第三中隊陣中日誌」現存部分中に野村長吉兵長の名前を見つけ出した。これにより野村さんは第三中隊(隊長:松原一雄中尉、四一 式山砲5門、177名)に所属し、大阪山周囲の地下陣地に配属されていたことが確認された。 (平成14年9月18日追記)

 平成14年11月、石川県で取材をした作者は他の硫黄島戦没者でも「三月十七日に中部太平洋にて戦死」とさ れた公報が遺族へ入った例を確認した。一部の軍管区では機密保持などの理由で「硫黄島」を「中部太平洋」として遺族に通知したものと考えられる。他の島々 も含めれば、自分の肉親がどの島で戦死したのか未だに知らされていない遺族は少なくないのではないだろうか。(マリアナ諸島、パラオ諸島も「中部太平洋」 であった。)
 また、「三月十九日戦死」とされていた例も複数存在するようである。誤記なのか、理由があっての表記なのかは不明 である。(平成14年11月4日追記)

* 文中の井波町・利賀村は平成16年11月1日に城端・福野・福光町・平・上平・井口村と合併し、南砺市と なった。

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1.位置とあらまし   .  2.戦跡を訪 ねて(その1) 3.戦跡を訪 ねて(その2)
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4.硫黄島の 自然    , 5.硫黄島写真館(その1) 6.硫黄島写真館(その2)
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7.遺品返還の記    . 8.もう一人のメダリス ト 9.硫黄島戦資料他   
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10.小 笠原・火山列島資料 11.エピローグ・・・   
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